翌朝。
私は開館前の事務室で、高瀬さんを待っていた。
机の上には三つのものを並べてある。
消えたあと見つかった『わたしたちの町 二十年の記録』。
高瀬さんが書いたという電話メモ。
そして、十八年前の職員記録から控えた吉岡恵美さんの連絡先。
午前八時四十分。
事務室のドアが開いた。
「おはようございます」
高瀬さんだった。
いつもの声。
薄い緑。
私はその色を見ながら、昨日までの自分なら安心していただろうと思った。
緑だから、本当。
青だから、嘘。
そんな単純な世界に、自分で勝手にしていた。
「高瀬さん」
「はい?」
「少し話があります」
私の表情を見て、高瀬さんの笑顔が消えた。
「昨日、吉岡恵美さんに電話しました」
高瀬さんは黙った。
声は出ていない。
だから、色もない。
「十八年前、タイムカプセルの参加者名簿を市役所から取り寄せてコピーした人です」
「……そうですか」
薄い緑。
私は続けた。
「吉岡さんは、誰かに頼まれてコピーしたと言っていました」
高瀬さんは何も言わない。
「頼んだのは、高瀬さんのお母さんだったそうですね」
しばらく沈黙が続いた。
やがて、
「そうです」
と高瀬さんは答えた。
緑。
それが真実だから緑なのか。
それとも単に、彼の平静な声が私には緑に感じられるだけなのか。
もう、どちらでもよかった。
「どうして黙ってたんですか?」
「関係ないと思ったからです」
緑。
「本当に?」
私は尋ねた。
高瀬さんはわずかに笑った。
「まだ声の色で判断してます?」
その言葉に、私は一瞬驚いた。
「水野さんから聞きました」
「……そうですか」
「人の声に色を感じるんでしょう」
「はい」
「俺の声は?」
「緑です」
「じゃあ、嘘じゃない?」
私は首を振った。
「もう、そうは思いません」
高瀬さんは黙った。
私は防犯映像の時刻を書いたメモを出した。
「午後三時十二分。あなたは本を机に置いた」
「はい」
「三時二十六分。もう一度、机のところへ行った」
「電話のメモを取りに行った」
「そう言いました」
私は電話メモを指さした。
「でも、この電話番号は一桁違っていました」
「聞き間違えたんでしょう」
「そうかもしれません」
私は答えた。
「でも、その一桁を直すと吉岡さんの昔の番号になる」
高瀬さんの表情が、わずかに固まった。
「偶然です」
「そうかもしれません」
私はもう一度同じ言葉を使った。
「だから、色じゃなくて事実を確認しました」
私は机の上の本を開いた。
「この本に参加者名簿のコピーを挟んだのは吉岡さんです」
「聞いたんでしょう」
「はい。そして、コピーを頼んだのはあなたのお母さん」
高瀬さんは椅子に座った。
私は向かいに腰を下ろす。
「お母さんもタイムカプセルに参加していた」
「……はい」
「あなたも?」
「俺はまだ小さかったので」
「でも家族で参加した」
沈黙のあと、高瀬さんはうなずいた。
「母が手紙を入れました」
「誰に?」
「父です」
水野さんと同じだった。
私は少し驚いた。
「ご両親は?」
「離婚しました」
「いつ?」
「タイムカプセルの翌年」
私は新聞記事の参加者名簿を思い返した。
家族。
未来への手紙。
そして、その後に崩れた家庭。
高瀬さんは静かに続けた。
「母は、父とやり直せると思ってたんです」
「手紙にそう書いた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「読んだことはありません」
私は高瀬さんを見る。
声はずっと緑だった。
「じゃあ、どうして十八年前に名簿をコピーしたんですか?」
「父の名前を確かめたかったからです」
「誰が?」
「母が」
高瀬さんは言った。
「父が本当にタイムカプセルに手紙を入れていたのか、知りたかった」
「入れていた?」
「はい」
「それだけ?」
高瀬さんは答えなかった。
私は待った。
少しして、
「母は、父の手紙を読めば何か分かると思ってたんです」
「何が?」
「どうして出ていったのか」
声は緑。
でもその奥に、ごく薄い青が混ざった気がした。
私はその色を追いかけそうになって、やめた。
今は色ではなく、言葉を聞く。
「名簿を抜いたのは、高瀬さんですね」
私は言った。
長い沈黙。
そして、
「はい」
と彼は答えた。
緑だった。
私は少しだけ笑いそうになった。
これまでなら、今の言葉を疑っていただろう。
でも、もう違う。
「三時二十六分?」
「そうです」
「どうして?」
高瀬さんは机を見つめた。
「母が、開封式に行くと言い出したんです」
「それで?」
「父の手紙を探すつもりだった」
「でも名簿を抜いても、手紙は消えません」
「分かってます」
高瀬さんは苦しそうに言った。
「でも、参加者名簿がなければ、開封の確認が少し遅れると思った」
「開封そのものを止めたかった?」
「止められるとは思ってません」
「じゃあ何のために?」
しばらくして、高瀬さんは答えた。
「時間が欲しかったんです」
母親は、二十年前の夫の手紙を読むことに執着していた。
離婚後も、その手紙には自分への本当の気持ちが書かれているはずだと信じ続けていた。
高瀬さんは、それをずっと聞かされて育った。
そして数か月前。
タイムカプセル開封の通知が届いた。
母親は再び昔に戻ったようになった。
父親の手紙を読めば、離婚の理由も、自分が捨てられた理由も、全部分かる。
そう言い始めた。
「父はもう再婚してるんです」
高瀬さんは言った。
「母も、それは知ってます」
「じゃあ」
「それでも、手紙に何か書いてあると思ってる」
「高瀬さんは、読ませたくなかった?」
「はい」
緑。
「なぜ?」
「何も変わらないからです」
その声だけは、少し震えていた。
「二十年前の言葉を読んでも、今は変わらない。父は戻ってこない。母も若返らない。でも母は、その手紙を読めば何かが戻ると思ってる」
私は黙って聞いた。
「だから、少しだけ時間を稼ごうとした」
「名簿を抜いて?」
「はい」
「電話は?」
高瀬さんは目を伏せた。
「自分でかけました」
私は眉を寄せる。
「どうやって?」
「個人の携帯から図書館に電話して、声を少し変えました」
「使われていない番号だったのは?」
「メモを書くときに、一桁変えました」
「吉岡さんの番号に似せた?」
「違います」
高瀬さんは首を振った。
「たまたまです」
私は少し考えた。
ここは証明できない。
だから、決めつけない。
「電話をかけた目的は?」
「名簿の所在を確認するためです」
「自分が職員なのに?」
「昔、母がコピーを頼んだことしか知らなかった。どの本に挟まってるかまでは知らなかったんです」
それなら筋は通る。
高瀬さんは電話で名簿の存在を確認した。
本を取り出した。
そして、自分で名簿を抜いた。
そのあと、電話メモを取りに行ったと説明した。
だが、本を動かしたのは私だった。
名簿だけが消え、本は別棚へ。
そのせいで、出来事は盗難事件のように見えた。
「名簿はどこですか?」
私は尋ねた。
高瀬さんは財布から折り畳まれた紙を取り出した。
透明な袋に入っている。
「捨てるつもりはありませんでした」
「持ってただけ?」
「はい」
私は袋を受け取った。
中には古いコピー用紙。
参加者の名前が並んでいる。
藤崎。
高瀬。
そして、ほかにも多くの家族。
「これを戻します」
私が言うと、高瀬さんはうなずいた。
「お願いします」
「高瀬さん」
「はい」
「開封式はどうするんですか?」
彼は答えなかった。
その日の午後。
私は水野さんにも事情を話した。
もちろん、高瀬さんの家庭事情については必要な範囲だけにした。
「じゃあ、本を盗んだ人はいなかったんですね」
「うん。動かしたのは私」
「名簿は高瀬さん」
「そういうこと」
水野さんは少し笑った。
「ずいぶん遠回りしましたね」
「本当に」
「声の色のせい?」
「半分は」
私は苦笑した。
「でも半分は、自分が都合よく解釈してたせい」
水野さんは黙った。
「あなたの声が青くなったから、犯人だと思った」
「はい」
「でも違った」
「はい」
「ごめん」
水野さんは首を振った。
「もういいです」
青。
私は思わず笑った。
「今、青い」
「え?」
「でも、嘘って意味じゃない」
水野さんも少し笑った。
「じゃあ何色なんですか、その青って」
私は少し考えた。
「たぶん……緊張したときとか」
「隠したいことがあるとき?」
「それもあると思う」
「怖いとき?」
「たぶん」
「嫌なことを思い出したとき?」
「それも」
水野さんは言った。
「ずいぶん曖昧ですね」
「うん」
私は答えた。
「人間って、そのくらい曖昧なのかも」
七日後。
タイムカプセルの開封式が行われた。
私は仕事だったので参加しなかった。
翌日。
水野さんが教えてくれた。
「母と行ってきました」
「手紙、開けた?」
「はい」
「大丈夫だった?」
水野さんは少し考えてから、
「はい」
と答えた。
声は青かった。
でも私は、その色に意味をつけなかった。
「何が書いてあったの?」
「秘密です」
今度は黄色。
「そう」
私は笑った。
高瀬さんも開封式に行ったらしい。
母親と一緒に。
父親の手紙がどんな内容だったのか、私は聞かなかった。
聞く必要もないと思った。
数日後。
高瀬さんの母親は、古い手紙を自宅に持ち帰ったという。
それで何かが解決したのか。
何も解決しなかったのか。
私には分からない。
ただ、高瀬さんは以前より少しだけ穏やかな顔をしていた。
それから私は、自分の共感覚を以前とは違うように考えるようになった。
青は嘘の色ではない。
緑は真実の色でもない。
黄色が安心で、赤が怒りだとも限らない。
色はただ、
私がその声をどう感じたか。
それだけだ。
考えてみれば当然だった。
人が嘘をつく理由は一つではない。
怖いから。
誰かを守りたいから。
恥ずかしいから。
傷つきたくないから。
傷つけたくないから。
そして、本当のことを言っていても、人は緊張する。
秘密に触れれば声は揺れる。
昔の傷を思い出せば、呼吸も変わる。
私はその変化を色として感じていただけだった。
色が間違っていたわけではない。
意味を決めつけていた私が間違っていた。
ある日の閉館前。
小学生くらいの男の子が本を返しに来た。
「ちゃんと全部読みました」
その声が、青く見えた。
以前の私なら、
嘘だ。
そう思っていただろう。
私は返却された本を見る。
かなり分厚い児童文学だった。
「面白かった?」
男の子は少し困った顔をした。
「……途中、ちょっと飛ばしました」
私は笑った。
「そうなんだ」
「でも最後は読みました」
青。
私はもう、それを嘘だとは思わなかった。
全部読んだと言ったことが恥ずかしくなったのかもしれない。
叱られると思ったのかもしれない。
それとも、ただ緊張しているだけかもしれない。
色だけでは分からない。
だから私は、男の子に言った。
「また借りてね」
「はい」
今度の声は、明るい黄色だった。
男の子が走っていく。
私はその背中を見送りながら思った。
人の声には、色がある。
少なくとも、私にはそう見える。
けれど――
嘘そのものに、色はない。


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