『青い嘘』青く聞こえる声

『青い嘘』青く聞こえる声のタイトル画像。 短編ミステリー
『青い嘘』― 青く聞こえる声

人の声には、色がある。

少なくとも、私にはそう見える。

朝、駅前のコンビニで店員が「ありがとうございました」と言えば、薄い橙色が視界の端を横切る。

電車の車内放送は、少しくすんだ銀色。

子どもの笑い声は、黄色や桃色になることが多い。

色が実際に空中へ浮かんでいるわけではない。

音を聞いた瞬間、頭の中に色が生まれる。

説明しろと言われると難しい。

熱いものに触れれば「熱い」と感じるのと同じくらい、私にとっては自然なことだった。

この感覚に名前があると知ったのは、中学生のころだ。

共感覚。

一つの感覚への刺激によって、別の感覚まで無意識に生じる現象。

私の場合は、音を聞くと色を感じる。

いわゆる「色聴」に近いらしい。

だからといって、生活に困ることはほとんどなかった。

むしろ私は、この感覚を少し気に入っていた。

ただ、一つだけ。

昔から気になっている色があった。

青。


私が青を意識するようになったのは、小学生のころだった。

学校から帰る途中、友達の佐伯が言った。

「宿題? もう終わったよ」

その瞬間だった。

佐伯の声に、青を感じた。

濃い青ではない。

水にインクを一滴落としたような、ぼんやりした青。

翌日、佐伯は先生に叱られていた。

宿題をやってこなかったからだ。

それだけなら偶然だった。

けれど、その後も似たようなことが何度かあった。

「怒ってないよ」

青。

「私じゃないよ」

青。

「ちゃんと連絡した」

青。

「忘れてない」

青。

そして後になって、それが嘘だったと分かることがあった。

もちろん、青く感じた言葉のすべてについて、その言葉が本当だったのか嘘だったのかを確かめてきたわけではない。

会話なんて、その場で終わってしまうもののほうが多い。

それでも私の記憶には、奇妙なほど、

青く聞こえた言葉が嘘だった経験

ばかりが残っていた。

だから、いつからか私は自分の中で勝手に決めていた。

青は、嘘の色だ。

誰にも話したことはない。

「嘘が分かる」なんて言えば、特殊能力でも持っているように聞こえる。

そんな大げさなものではない。

たぶん、人が嘘をつくときの声には、本人も気づかないほど小さな変化があるのだ。

声の高さ。

わずかな震え。

息遣い。

話す速さ。

私の耳がそうした変化を拾い、それを共感覚によって青として感じている。

そう考えていた。

そして三十二歳になった今でも、その考えを疑う理由はなかった。

あの日までは。


私は、市立図書館で働いている。

駅から歩いて十五分ほど離れた、小さな図書館だ。

二階建ての古い建物で、蔵書数もそれほど多くない。

利用者の大半は近所の住民で、平日は驚くほど静かだった。

事件とは無縁の場所。

少なくとも、その日の夕方まではそう思っていた。

「ちょっと来てもらえますか」

午後六時十分。

閉館作業を始めようとしていた私に声をかけてきたのは、司書の高瀬さんだった。

「どうしました?」

「本が一冊、見つからないんです」

私は少し拍子抜けした。

図書館で本が見つからないことなど珍しくない。

利用者が違う棚へ戻してしまうこともあるし、返却処理の途中で別の場所に置かれることもある。

「どの本ですか?」

高瀬さんが差し出したメモを見る。

『わたしたちの町 二十年の記録』

二十年前に市制記念事業の一環として作られた郷土資料だった。

町の古い写真や住民へのインタビューが収録されている。

貸出記録を確認すると、最後に借りられたのは三年以上前だった。

「今日の午後まではあったんです」

「確認したんですか?」

「ええ。三時ごろに」

高瀬さんの声には、薄い緑を感じた。

いつもの色だ。

「問い合わせの電話があったので、私が棚から出しました」

「問い合わせ?」

「二十年前の市制記念イベントについて調べたいっていう方がいて」

その年、市ではタイムカプセルを埋める企画が行われていた。

子どもから大人まで参加できる催しで、家族で参加した人も多かったという。

住民たちは未来の自分や家族に宛てて手紙を書き、それをカプセルに入れた。

問題の本には、そのイベントの写真も掲載されていた。

そして高瀬さんによると、本には一枚の紙が挟まれていた。

「参加者名簿です」

「そんなものが?」

「正式な資料じゃありません。昔、誰かがコピーしたものだと思います。タイムカプセルに手紙を入れた人たちの名前が載っていました」

「その名簿も本と一緒に?」

「ええ。私が棚から出したときには、確かに挟まっていました」

薄い緑。

いつもの高瀬さんの声だった。


高瀬さんは、本をカウンター内にある資料整理用の机へ置いたという。

その机は、柱のすぐ裏にある。

図書館には一階のカウンター周辺を撮影する防犯カメラが一台設置されている。

カウンターの正面。

貸出端末。

返却台。

職員が作業するスペース。

そこまでは映っている。

しかし建物の構造上、一本の太い柱が視界を遮っており、その裏側に置かれた資料整理机だけは映らない。

小さな死角だった。

ただし、完全に隠れているわけではない。

机そのものは映らないが、机の前へ入る人と、そこから出てくる人は必ず映る。

柱の左右はカメラの撮影範囲に入っているからだ。

死角へ入る方法は一つしかない。

カウンター内から柱の横を通り、資料整理机の前へ回り込む。

一般利用者がそこへ行くには、まずカウンター内へ入らなければならない。

その時点で必ずカメラに映る。

午後三時十二分。

映像には、高瀬さんが問題の本を持って柱の横を通り、死角へ入る姿が残っていた。

十数秒後。

手ぶらで戻ってくる。

「ここに置いたんですね?」

「ええ」

私は実際に机を見た。

もちろん、今は何もない。


午後六時前。

高瀬さんが本を確認しようとして、なくなっていることに気づいた。

貸出処理はされていない。

返却箱にもない。

私たちは郷土資料の棚、返却台、事務室、カウンター周辺など、思い当たる場所を探した。

それでも見つからなかった。

「誰かが違う棚に戻したんじゃないですか?」

「その可能性もあります」

高瀬さんは言った。

「でも、気になるんです」

「何が?」

「名簿です」

私は顔を上げた。

「問い合わせをしてきた人が、妙に参加者の名前を気にしていたんですよ」

「名前?」

「『参加者全員の名前が分かりますか』って」

本そのものではない。

電話の相手が知りたかったのは、二十年前の参加者だった。

私は空になった机を見る。

本がなくなった。

その中には名簿が挟まれていた。

けれど――。

本と名簿が同時になくなったとは限らない。

そのときの私は、まだその可能性を深く考えなかった。


私たちは防犯カメラを確認した。

調べるべき時間ははっきりしている。

午後三時十二分から、午後六時前まで。

高瀬さんが本を置いたとされる時刻から、なくなっていることに気づくまでだ。

一般利用者は何人もカウンター前を通っていた。

本を返す人。

貸出手続きをする人。

質問をする人。

しかし、カウンター内へ入った利用者はいなかった。

問題は職員だった。

私は映像を早送りしながら、柱の横に注目した。

午後三時十二分。

高瀬さんが本を持って死角へ入る。

十数秒後、手ぶらで出てくる。

その後。

主人公である私は、何度かカウンター内を移動している。

水野さんも返却本を運び、端末を操作している。

高瀬さんも利用者への対応をしている。

しかし――。

柱の裏へ入った人物だけを確認すると、状況は違っていた。

高瀬さんは、三時十二分に一度。

私は、午後四時二十分ごろに一度。

返却された郷土資料を整理するため、資料整理机へ行っている。

そして水野さんは――

一度も入っていない。

私は映像を止めた。

これならはっきりしている。

水野さんはカウンター内には何度もいる。

だが、

本が置かれた死角へは、一度も足を踏み入れていない。

机へ腕だけを伸ばすこともできない。

柱の裏へ回り込まなければ、机には届かない配置だからだ。


念のため、閉館直前まで残っていた利用者にも確認した。

二階にいた高校生と大学生。

一階で新聞を読んでいた常連の男性。

三人とも、本について心当たりはなかった。

防犯映像でも、カウンター内へ入っていないことが確認できた。

そして職員にも聞いた。

高瀬さんは、

「午後三時十二分ごろに机へ置いて、その後は触っていません」

と答えた。

薄い緑。

少なくとも、私が「嘘」と考えている青ではない。

もっとも、映像だけでは高瀬さんの言葉を完全には証明できない。

私自身も午後四時二十分ごろ、一度は死角へ入っている。

自分が本に触れていないことを知っているのは、私だけだ。

それでも、一人だけ状況の違う人物がいた。

水野真帆さん。

二十五歳。

この図書館で働き始めて半年ほどになる。

「『わたしたちの町 二十年の記録』っていう本。今日、カウンターの奥に置いてあったんだけど」

「ああ……」

その瞬間。

水野さんの表情がわずかに変わった。

ほんの一瞬だけ視線を落とす。

「知ってる?」

「見たような気はします」

「触った?」

私は何気なく尋ねた。

「いいえ」

その瞬間。

視界の奥に色が広がった。

水に落としたインクのような――

青。

私は水野さんを見た。

「今日、その本には触ってない?」

「はい」

また青。

「触ってません」

青。

胸の奥がざわついた。

これまで何度も感じてきた色。

私の中では、ずっと一つの意味しか持たなかった色。

嘘。

けれど、防犯カメラは正反対のことを示している。

水野さんは、机のある死角へ一度も入っていない。

「分かりました。ありがとうございます」

それ以上は聞かなかった。

水野さんが事務室を出ていく。

ドアが閉まってから、高瀬さんが小声で尋ねた。

「どう思います?」

「まだ何とも言えません」

私は答えた。

本心では混乱していた。

水野さんを疑うべきなのか。

それとも――

自分の青を疑うべきなのか。


閉館後。

私はもう一度、防犯カメラを最初から確認した。

今度は水野さんだけを追った。

午後三時十二分以降、彼女は何度もカウンター内を歩いている。

返却本を運ぶ。

貸出端末を操作する。

二階へ上がる。

事務室へ入る。

またカウンターへ戻る。

しかし、何度映像を見直しても同じだった。

水野さんは一度も柱の裏へ入っていない。

本が机に置かれていたのなら、彼女には触れない。

少なくとも、午後三時十二分以降は。

私はそこで映像を止めた。

その言葉が妙に引っかかった。

午後三時十二分以降は。

それより前なら?

いや。

高瀬さんは三時十二分に棚から本を取り出した。

だったら、水野さんが机の上の本に触れることはできない。

私は椅子にもたれた。

「……どういうこと?」

水野さんは、

「その本には触っていない」

と言った。

映像を見る限り、その言葉は本当だ。

なのに。

彼女の声は確かに青かった。


「まだ調べてるんですか?」

突然、背後から声がした。

私は驚いて振り返った。

水野さんだった。

「ごめんなさい。忘れ物を取りに来ただけです」

彼女は申し訳なさそうに笑った。

その声は薄い黄色だった。

青ではない。

水野さんはロッカーから小さなポーチを取り出した。

「もう帰ります」

「うん。お疲れさま」

「お疲れさまでした」

薄い黄色。

彼女は事務室を出ていった。

私は閉じたドアを見つめた。

同じ人間。

同じ声。

なのに、今は青くない。

何が違った?

質問した内容か。

本か。

それとも――

あの本に挟まれていた、二十年前の名簿か。

思い返してみれば、水野さんは本の題名を聞いた瞬間、一度だけ視線を落としていた。

水野さんは二十五歳。

二十年前なら、五歳。

あのタイムカプセル企画は、子どもも参加できた。

偶然だろうか。

私はパソコンの画面へ向き直った。

青い声。

触っていない本。

消えた郷土資料。

そして、その本に挟まれていたという二十年前の参加者名簿。

私はずっと、

青い声=嘘

だと思っていた。

そして今、

本が消えた=名簿も同じときに消えた

と、無意識に考えていた。

けれど、どちらもまだ証明されていない。

青く聞こえた言葉が、本当だったことはないのか。

名簿は、本がなくなったときまで本当に挟まっていたのか。

その夜、私は初めて、自分が信じてきたものを疑った。

青は、本当に嘘の色なのだろうか。

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