『いつも先に借りている人』旧校舎三階資料室

『いつも先に借りている人』旧校舎三階資料室のタイトル画像。 短編ミステリー
『いつも先に借りている人』― 旧校舎三階資料室

その日の夜、僕はずっと暗号の続きを考えていた。

キュウコウシャ サン カ

旧校舎、三、カ。

「カ」は何だ。

階。

会議室。

科学室。

管理室。

いくら考えても決め手がない。

ただ一つ分かっているのは、司書の先生が「旧校舎には行かないで」と言ったことだった。

危険だから。

先生はそう言った。

けれど、本当にそれだけなら、あんな顔をする必要はない。

先生は暗号を知っている。

そして、僕がそこへたどり着くことを恐れている。

翌朝。

僕はいつもより早く学校へ行った。

図書館が開く前、校舎の廊下から旧校舎を眺める。

現在の校舎とは渡り廊下でつながっているが、その手前には「立入禁止」と書かれたロープが張られていた。

旧校舎は三階建て。

外壁は黒ずみ、窓の一部には板が打ち付けられている。

数年前までは部活動の倉庫として使われていたらしい。

僕はスマートフォンで校内案内図を確認した。

旧校舎三階。

そこに並んでいる部屋は、

旧音楽室。

旧美術室。

第三資料室。

僕の指が止まった。

第三資料室。

「三……資料室」

暗号の続きが頭の中でつながった。

キュウコウシャ。

サン。

カ。

もし「カ」が「階」の最初の文字なら、

旧校舎 三階――

その先に、さらに文字が続くはずだ。

僕は昼休みになると図書館へ走った。

昨日の本をすべて机に並べる。

最後に出てきた『学校資料集 創立八十周年記念』。

三章十八ページ。

「カ」。

そこから、さらに何か仕掛けがないか調べる。

ページの端。

索引。

奥付。

何もない。

諦めかけたとき、本のカバーと表紙の間から薄い紙が落ちた。

小さな図書館のメモ用紙。

そこには数字が一つだけ書かれていた。

56

僕は五十六ページを開いた。

学校の歴史を紹介する文章。

一文字だけ、鉛筆で薄く囲まれている。

「イ」

「カイ……」

階。

やはりそうだ。

さらにそのページの下に、極小の数字。

72

七十二ページ。

「シ」

次。

81

「リ」

次。

94

「ョ」

次。

103

「ウ」

最後。

117

「シ」

僕はノートに書く。

キュウコウシャ サンカイ シリョウシ

旧校舎 三階 資料し。

あと一文字。

ページの端に、さらに数字がある。

126

開く。

丸で囲まれていた文字は、

「ツ」

完成した。

キュウコウシャ サンカイ シリョウシツ

旧校舎三階資料室。

僕は窓の外を見た。

やはり、そこだった。


放課後。

僕は旧校舎へ向かった。

本当なら入ってはいけない。

でも、ここまで来て引き返す気にはなれなかった。

渡り廊下のロープをくぐる。

旧校舎へ一歩入った瞬間、空気が変わった。

ほこり。

湿気。

古い木の匂い。

誰もいないはずなのに、自分の足音だけが妙に大きく響く。

一階。

二階。

階段を上がる。

三階。

廊下の一番奥に、小さなプレートがあった。

第三資料室

ドアには鍵がかかっていた。

「……やっぱり」

僕がそう呟いたときだった。

取っ手の上に、何かが貼り付けられていることに気づく。

小さな封筒。

表には、僕の名前が書かれていた。

相沢湊へ

背筋が冷えた。

僕は周囲を見る。

誰もいない。

封筒を開く。

中には、一枚の紙と一本の小さな鍵が入っていた。

紙には短い文章。

ここまで来たなら、もう戻れない。

中にあるものを見て、それでも知りたいと思ったら、最後の本を探して。

名前はない。

でも、誰が書いたのか。

もう分かっている気がした。

僕は鍵を差し込んだ。

回る。

ドアが開いた。


資料室の中は薄暗かった。

窓にはカーテンがかかり、机や棚には白い布がかぶせられている。

奥に古いキャビネット。

段ボール箱。

大量の学校資料。

僕はスマートフォンのライトをつけた。

机の上に、一つだけ新しい段ボール箱が置かれていた。

ふたには、

図書委員会 2012年度

と書かれている。

僕は箱を開けた。

古い掲示物。

読書週間のポスター。

貸出統計。

図書委員会の議事録。

そして、一冊の黒いノート。

表紙には何も書かれていない。

開く。

最初のページ。

二〇一二年九月十二日

書いた人物の名前はない。

だが文章は、高校生の日記のようだった。

図書委員会の活動。

本の整理。

友人との会話。

何ページか読むうちに、一つの名前が出てきた。

琴音

僕はページをめくる手を止めた。

高瀬琴音。

内容は次第に変わっていった。

十月。

琴音が、ある教師の不正に気づいたこと。

学校の備品購入に不自然な金額があること。

寄付金の一部が帳簿と合わないこと。

琴音は証拠を集め始めた。

そして、水城澪に相談した。

ノートの文章は、明らかに水城澪が書いたものだった。

十一月一日。

琴音は明日、先生に話すと言った。

十一月二日。

止めたほうがいいと言った。でも、琴音は聞かなかった。

僕の目が止まる。

十一月二日。

最初の推理小説に残っていた、水城澪の貸出日と同じ日。

さらにページをめくる。

十一月五日。

琴音が学校に来ない。

十一月八日。

退学したと聞いた。家庭の事情だと言われた。嘘だ。

十一月十日。

先生に聞いた。何も知らないと言われた。

十一月十二日。

琴音が集めたものは全部なくなっていた。

僕は息を呑んだ。

学校新聞の記事。

「家庭の事情により退学」。

あれはやはり、高瀬琴音だった。

そして、さらに先を読む。

十一月十五日。

証拠は全部消えたわけじゃない。

十一月十七日。

琴音は本の中に残していた。

十一月二十日。

誰にも分からないように、図書館の本に分けて。

僕は顔を上げた。

本。

貸出カード。

ページの印。

暗号。

すべて、二〇一二年から始まっていた。

十一月二十二日。

私も続きを隠す。

十一月二十四日。

いつか誰かが見つけてくれればいい。

そこで文章は途切れていた。

次のページは破られている。

その後も数ページ、何も書かれていない。

最後のページに、一文だけ残っていた。

最後の本は、私が一番好きだった場所にある。

「一番好きだった場所……」

水城澪は図書委員だった。

なら、場所は図書館。

でも図書館のどこだ。

そのとき。

廊下で音がした。

ギシ。

誰かの足音。

僕は振り返った。

ゆっくり近づいてくる。

ギシ。

ギシ。

資料室の前で止まった。

ドアが開く。

立っていたのは――

司書の先生だった。

先生は驚いていなかった。

僕を見る。

机の上の黒いノートを見る。

そして静かに息を吐いた。

「やっぱり、来たのね」

僕はノートを握った。

「先生」

声が震えた。

「水城澪って……誰なんですか」

先生はしばらく何も言わなかった。

やがて、窓へ歩いた。

カーテンを少し開ける。

夕方の光が差し込み、先生の横顔を照らした。

「その質問は、少し違うわ」

「え?」

先生はこちらを向いた。

「水城澪は、誰だったのかじゃない」

一拍置いて、

「今も誰なのか、でしょう」

嫌な予感がした。

先生はポケットから、一枚の古い写真を取り出した。

卒業アルバムと同じ少女。

水城澪。

その裏には、名前が書いてある。

先生は写真を僕へ差し出した。

「旧姓なの」

「……旧姓?」

「結婚して名字が変わっただけ」

僕は写真と先生の顔を見比べた。

目元。

輪郭。

笑ったときの口元。

十四年前ではなく、十三年以上前の写真。

それでも、分かった。

「先生が……」

先生はうなずいた。

「そう」

そして言った。

「私が、水城澪よ」

頭の中が真っ白になった。

幽霊でもなかった。

未来を知る人でもなかった。

ずっと目の前にいた。

図書館のカウンターに。

「じゃあ……最近の貸出カードも」

「私が書いた」

「全部?」

「全部よ」

「でも、乱数で選んだ野鳥の本まで」

その言葉に、先生の表情が曇った。

「あれは予定外だった」

「予定外?」

「あなたが本を選ぶように、ずっと誘導していたの」

僕は何も言えなかった。

先生は続ける。

「窓際の展示。返却本の置き場所。おすすめの紹介カード。本棚から少しだけ背表紙を出しておくこともあった」

僕の頭の中に、これまでの場面が浮かぶ。

『夏の星座と夜空』

窓際にあった紹介カード。

郷土史の本。

授業で必要になったタイミング。

床へ落ちた写真集。

「じゃあ、あの本も」

「私が落とした」

「どうしてそこまで……」

「あなたに、この場所を見つけてほしかったから」

「だったら最初から教えればよかったじゃないですか」

先生は首を振った。

「私は一度、何もできなかった」

その声は、これまで聞いたことがないほど弱かった。

「琴音が学校を辞めさせられたとき、私は怖くなった。先生に逆らったら自分まで同じことになると思った」

「辞めさせられた?」

「表向きは家庭の事情。でも違う」

先生は黒いノートを見る。

「琴音は不正を告発しようとした。それを学校側に止められた」

「証拠は?」

「当時の私は持っていなかった。琴音がどこに隠したのかも知らなかった」

「じゃあ、今も?」

先生は答えなかった。

代わりに言った。

「最後の本に入っているはずよ」

僕は日記の最後の言葉を思い出す。

私が一番好きだった場所。

「先生は場所を知らないんですか?」

「知らない」

「自分で書いたのに?」

先生は目を伏せた。

「その一文を書いたのは私じゃない」

僕は息を止めた。

「じゃあ、誰が?」

先生は黒いノートを指さした。

「琴音よ」

「……え?」

「そのノート、途中から筆跡が変わっているでしょう」

僕は急いでページを戻した。

確かに。

前半と後半。

似ているが、少し違う。

「琴音は退学する前、ノートを私に返していた。私はそれをずっと保管していた」

「最後の本を探してっていうのは……」

「琴音が残した言葉」

僕は先生を見る。

「じゃあ、先生も最後の本を見つけてない?」

「ええ」

「十三年以上も?」

先生は苦笑した。

「何度も探したわ」

「なのに分からなかった」

「分からなかった」

その答えが意外だった。

ここまで全部を仕掛けた人なのに。

最後だけ知らない。

「だったら、どうして僕なら見つけられると思ったんですか」

先生は僕を見た。

「あなたは、私が用意した本の順番に違和感を持った」

「……」

「それだけじゃない。わざわざ乱数で本を選んで、私の仕掛けが本当に偶然なのか確かめようとした」

僕は黙って聞く。

「私にはできなかったことを、あなたはする」

「何がですか」

「疑うこと」

先生はそう言った。

「自分が正しいと思っている筋書きまで、ちゃんと疑うこと」

僕は黒いノートを見る。

その瞬間。

一つの違和感が浮かんだ。

「待ってください」

「何?」

「先生、僕を誘導したって言いましたよね」

「ええ」

「だったら、最初の推理小説も先生が選ばせた」

「そう」

「でも」

僕は貸出カードを思い出す。

二〇一二年十一月二日。

水城澪。

そして二〇二六年六月十二日。

水城澪。

「最近の名前は先生が書いた」

「そうよ」

「じゃあ、十三年前の水城澪も先生本人」

「ええ」

僕はゆっくり顔を上げた。

「だったら、おかしい」

先生の表情が止まる。

「何が?」

「先生は、琴音がどの本に証拠を隠したのか知らなかったんですよね」

「……ええ」

「なのに、どうして」

僕は一冊目の推理小説を思い浮かべる。

「先生が十三年前に借りた本と、琴音が暗号を残した本が同じなんですか?」

先生が黙った。

偶然では説明できない。

六冊も。

十三年前に水城澪が借りた本。

そこに琴音の印が残っている。

そして現在、先生はその同じ本を僕へ順番に選ばせた。

つまり――

先生は知らないのではない。

少なくとも、何かを知っている。

「先生」

僕は言った。

「まだ、僕に隠してることがありますよね」

先生は答えなかった。

その沈黙で十分だった。

僕は初めて気づいた。

ここまで僕が追ってきた謎には、

もう一つ嘘が混じっている。

水城澪は見つかった。

それでも、この事件はまだ終わっていない。

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