黒い点は、まだそこにあった。
ベッド脇の白い壁。
現実には何もない場所に、鏡の中でだけ小さな黒い点が浮かんでいる。
修一は姿見へ近づいた。
汚れか。
傷か。
指先で鏡の表面をなぞる。
何もない。
ティッシュで拭いても消えない。
試しに一歩横へ動いた。
黒い点が消えた。
「……え?」
元の位置へ戻る。
現れる。
横へ動く。
消える。
足元を見る。
昨夜貼ったテープがある。
決まった位置から見たときだけ、黒い点が現れる。
スマートフォンを構えた。
肉眼では見える。
だが画面には、ただの白い壁しか映っていない。
そのとき。
黒い点がふっと消えた。
時計を見る。
六時四十五分。
時計も、カーテンも、本も正常に戻っている。
修一はノートに書いた。
六時四十分ごろ――異変。
六時四十五分――消失。
翌朝。
修一は六時二十分に起きた。
姿見の前で待つ。
六時三十分。
異常なし。
六時三十九分。
異常なし。
そして――
6:40。
鏡の中の時計が動いた。
ほんの数センチ。
続いてカーテンの隙間が狭くなる。
机の上の本も、ゆっくりと角度を変えた。
「……始まった」
修一は振り返らない。
スマートフォンを鏡へ向ける。
画面では、すべて正常。
下ろす。
異常。
カメラには映らない。
六時四十三分。
白い壁に黒い点が現れた。
六時四十四分。
点が縦に伸びる。
短い黒い線になった。
そして六時四十五分。
すべてが消えた。
修一はノートへ時刻を書き込んだ。
6:40 時計・カーテン・本
6:43 黒い点
6:44 黒い線
6:45 消失
偶然ではない。
異変には規則がある。
毎朝六時四十分から、わずか五分間。
そしてもう一つ。
黒い点が最もはっきり見えるのは、床に貼ったテープの位置だった。
三年間、毎朝身だしなみを確認してきた――
いつもの立ち位置。
その夜。
修一はベッド脇の壁を調べた。
鏡の中で黒い点が現れる場所。
白い壁紙。
見たところ何もない。
軽く叩いていく。
コツ。
コツ。
コン。
手が止まった。
一か所だけ音が違う。
スマートフォンのライトを斜めから当てた。
「……何だ、これ」
壁紙に、ごく薄い縦筋がある。
二十センチほど。
鏡の中に現れた黒い線と、ほぼ同じ場所だった。
壁紙の継ぎ目かもしれない。
古い補修跡かもしれない。
だが修一は、三年間暮らしてきて一度も気づかなかった。
指で押してみる。
硬い。
もう一度叩く。
コン。
壁の向こうに空洞があるような、軽い音だった。
翌朝。
六時四十分。
異変は予定どおり始まった。
時計。
カーテン。
本。
修一はそれらをほとんど見なかった。
待っているのは、その先だ。
六時四十三分。
黒い点。
六時四十四分。
黒い線。
「……!」
昨日より長い。
さらに線の下端から、短い横線が伸びていた。
縦。
横。
まだ一部分にすぎない。
だが修一には、それが何の形なのか分かった。
「扉……?」
壁の中にある、扉の輪郭。
そんなふうに見える。
そして。
黒い線の横に、新しいものが現れた。
銀色の小さな点。
床から一メートルほどの高さ。
丸く、金属のように光っている。
扉だとすれば――
ドアノブの位置だった。
修一はスマートフォンを向けた。
画面には白い壁しかない。
肉眼では、扉の一部が見える。
その瞬間。
修一の中で一つの考えが形になった。
鏡の向こうには、
もう一つの部屋がある。
こちらとほとんど同じ部屋。
だから今まで気づかなかった。
だが完全には同じではない。
時計の位置。
カーテンの開き方。
本の角度。
少しずつ違う。
そして向こうの部屋には――
こちらには存在しない扉がある。
「そんなわけないだろ……」
鏡は光を反射しているだけだ。
向こう側に空間などない。
分かっている。
だが、目の前の光景をほかにどう説明すればいい。
六時四十五分。
扉は消えた。
その日の夜。
修一は姿見に大きな布を掛けた。
もう見ない。
鏡を見なければ、何も起こらない。
そう考えた。
だが、ベッドに入っても眠れなかった。
布を掛けた姿見が気になる。
何度も目が向く。
午前一時。
午前三時。
午前五時。
いつの間にか眠っていた。
次に目を覚ましたとき。
修一は枕元のスマートフォンを見た。
6:41。
飛び起きる。
姿見には布が掛かったままだ。
「……過ぎてる」
六時四十分を過ぎている。
今日は鏡を見ていない。
何も起きていないはずだ。
修一は息を吐いた。
そのとき。
机が目に入った。
「……え?」
本が斜めになっていた。
昨夜、確かに机の端と平行に置いた。
念のため、鉛筆で位置まで印をつけていた。
修一は机へ近づいた。
本の角が、
その印から数センチずれている。
これは鏡像ではない。
カメラにも映らない奇妙な像でもない。
手を伸ばす。
本に触れる。
冷たい紙の感触。
確かにそこにある。
現実の本が動いている。
修一はゆっくりと姿見を振り返った。
布は掛かったまま。
そのとき。
コツ。
音がした。
修一は固まった。
どこからだ。
数秒の沈黙。
コツ。
もう一度。
今度は分かった。
音は――
布を掛けた、
鏡の裏側から聞こえていた。

