その日の夜。
仕事から帰った圭介が最初に確認したのは、金庫だった。
朝と同じ場所にある。
当然だった。
誰も部屋には入っていない。
それでも圭介は、玄関から部屋へ入った瞬間、机の横を見ずにはいられなかった。
黒い金庫。
テンキー。
取っ手。
そして朝見つけた、自筆の警告。
絶対に金庫を開けるな。
メモは仕事へ行く前に、机の上へ置いておいた。
圭介は鞄を下ろすと、椅子に座った。
一日中、考えていた。
金庫の中身ではない。
三日前の自分が何をしたのか。
金庫を買った。
部屋へ運んだ。
何かを入れた。
暗証番号を設定した。
そして警告を書いた。
そこまでは、残された証拠から推測できる。
問題はその先だった。
なぜ覚えていないのか。
そして、なぜ「開けるな」と書いたのか。
「順番に調べるしかないか」
圭介はノートを開いた。
一ページ目に、三日前の日付を書いた。
その下に、
18:43 金庫購入
と記す。
レシートで確認できる事実だった。
その前後を埋めれば、何か分かるかもしれない。
まず確認したのは、クレジットカードの利用履歴だった。
金庫の代金が記録されている。
時刻はレシートと同じ。
午後六時四十三分。
その前の決済は昼食。
その次は――
圭介の指が止まった。
19:18 コンビニ 1,246円
「コンビニ……?」
店名を確認する。
自宅から数百メートルのところにある店だった。
金庫を購入したホームセンターから自宅へ戻る途中にある。
圭介はノートに書き足した。
18:43 ホームセンターで金庫購入
19:18 自宅近くのコンビニ
少なくとも三日前の自分は、金庫を買ったあと、そのまま家の近くまで戻ってきている。
では、コンビニで何を買ったのか。
財布の中を探したが、レシートはなかった。
「千二百四十六円……」
夕食だけなら不自然な金額ではない。
だが、それだけとは限らない。
圭介は立ち上がった。
キッチンへ向かう。
冷蔵庫。
棚。
ゴミ箱。
何か残っていないか。
ゴミは昨日出してしまっている。
それでも棚の奥を確認していると、見覚えのないものが出てきた。
黒い油性ペンだった。
圭介はそれを手に取った。
普段、自宅で使っているのは青いボールペンだけだ。
キャップを外す。
紙に線を引いてみる。
太い黒色。
机の上の警告文を見る。
絶対に金庫を開けるな。
似ている。
圭介はメモの端に、ほんの少しだけ線を引いた。
色も太さもほぼ同じだった。
断定はできない。
だが、このペンで警告を書いた可能性は高い。
圭介はノートに、
コンビニで油性ペンを買った?
と書いた。
次にスマートフォンを調べた。
写真。
動画。
通話履歴。
検索履歴。
三日前の午後六時以降を、一つずつ確認する。
検索履歴には金庫の商品ページが残っていた。
17:56 家庭用金庫 小型
18:02 電子金庫 暗証番号
18:07 近くのホームセンター
ここまでは理解できる。
仕事を終えたあと、自分で金庫を探していたのだ。
さらに履歴を下へたどる。
午後七時台。
検索はない。
午後八時台もない。
だが――
午後九時十四分。
奇妙な検索が一つ残っていた。
「数字を忘れる方法」
圭介は画面を見つめた。
「……なんだよ、これ」
その直後。
21:17 覚えにくい数字
21:21 ランダムな数字 作り方
21:28 暗証番号 自分でも分からなくする
圭介の背中に冷たいものが走った。
偶然ではない。
三日前の自分は、
暗証番号を忘れようとしていた。
圭介は金庫の前へ戻った。
朝まで、ひとつ思い違いをしていた。
暗証番号を知らないのは、何かの事故なのだと思っていた。
忘れた。
記憶が抜けた。
あるいは設定したつもりになっているだけ。
だが違う。
少なくとも検索履歴を見る限り、
三日前の自分は意図的に、
「自分でも分からない暗証番号」を作ろうとしていた。
「でも……そんなことできるのか?」
番号を自分で入力する以上、一度は見る必要がある。
四桁でも八桁でも同じだ。
設定した瞬間には覚えている。
忘れようとしても、簡単に消せるものではない。
圭介は金庫を見つめながら考えた。
そこで、ある方法を思いついた。
自分で数字を決めなければいい。
たとえば乱数を表示させる。
それを一度だけ見て入力する。
その後、数字そのものを記録せず、別の情報に変換して残す。
あるいは――
自分だけでは復元できない形にする。
圭介は立ち上がった。
「何か残してるはずだ」
三日前の自分がそこまで慎重だったのなら、完全に手がかりを消したとは思えない。
警告を残したのもそうだ。
「開けるな」と伝える必要があった。
つまり三日前の自分は、
未来の自分が金庫の存在を知ることを前提にしていた。
だったら、
開けようとしたときのことも考えていたはずだ。
圭介は部屋を探した。
机の引き出し。
本棚。
テレビ台。
キッチン。
財布。
鞄。
衣類のポケット。
何もない。
最後に、もう一度机へ戻った。
白い封筒。
金庫のレシートと保証書が入っていた封筒だ。
中身をすべて出す。
空だった。
圭介は捨てようとして、手を止めた。
封筒の表には何も書かれていない。
裏も同じ。
だが、照明にかざしたとき、
紙の内側に薄い跡が見えた。
筆圧の跡だった。
何かを書いた紙を、この封筒の上に置いていたらしい。
圭介は鉛筆を取り出した。
芯を寝かせ、封筒の表面を薄くこする。
少しずつ文字が浮かび上がった。
数字だった。
4 7 2 1
圭介の心臓が強く鳴った。
「暗証番号……?」
四桁。
この金庫には設定できる長さだ。
圭介は金庫を見る。
テンキーの「4」。
「7」。
「2」。
「1」。
指を伸ばせば、数秒で入力できる。
だが押さなかった。
三日前の自分は、
暗証番号を忘れようとしていた。
それなのに、なぜ番号らしき数字を残した?
矛盾している。
圭介はノートに数字を書き写した。
4721
何度見ても、心当たりはない。
誕生日でもない。
電話番号でもない。
社員番号でもない。
住所とも関係がない。
圭介はスマートフォンで「4721」と検索しようとして――
やめた。
その瞬間、別のことに気づいたからだ。
「待てよ……」
封筒に残っていたのは、
数字そのものではない。
筆圧の跡だ。
つまり三日前、この封筒の上に紙を置き、
誰かが「4721」と書いた。
そして、その紙はなくなっている。
圭介は自筆の警告を手に取った。
裏返す。
照明へかざす。
大きさを比べる。
警告の紙と封筒は、ほぼ同じ幅だった。
圭介は紙を封筒の上へ重ねた。
位置を少しずつ動かす。
そして止まった。
ぴったり重なる場所があった。
「まさか……」
警告を書く前に、
同じ紙の別の場所へ数字を書いた。
その筆圧だけが封筒に残った。
そのあと数字の部分を――
圭介は警告の紙をよく見た。
下端だけが、わずかに不自然だった。
まっすぐではない。
手で破いたような繊維が残っている。
このメモは、
もともともう少し縦に長かった。
数字を書いた部分だけを切り離した。
あるいは破り取った。
そして、その部分をどこかへ移した。
「じゃあ、4721は……」
暗証番号なのか。
それとも別の何かなのか。
分からない。
だが、一つだけ確かなことがある。
三日前の自分は、
暗証番号を完全に消したわけではない。
どこかに手がかりを残している。
圭介は部屋の中を見渡した。
今までとは見え方が違った。
金庫。
レシート。
保証書。
油性ペン。
検索履歴。
自筆の警告。
そして、封筒に残った四桁の数字。
すべて三日前の自分が残したものだ。
偶然ではない。
何か目的がある。
圭介はノートに、確認できた事実を並べた。
① 金庫は自分で購入した。
② 暗証番号も自分で設定した可能性が高い。
③ 自分から暗証番号を忘れようとしていた。
④ 「絶対に金庫を開けるな」と警告を残した。
⑤ それでも「4721」という数字の痕跡を残している。
圭介はしばらく眺めた。
そして、五番目の横に疑問符を書いた。
おかしい。
本当に絶対に開けてほしくないなら、
手がかりなど残さなければいい。
暗証番号を忘れ、
復元する方法も消してしまえばいい。
それで終わる。
なのに三日前の自分はそうしなかった。
開けるなと警告しながら、開けるための手がかりらしきものを残している。
「どういうことだ……」
圭介は警告のメモを見つめた。
そして、朝から何度も読んだ一文を、もう一度ゆっくり読んだ。
絶対に金庫を開けるな。
そのときだった。
圭介は初めて、別の可能性に気づいた。
この文章は、
「暗証番号を調べるな」とは書いていない。
暗証番号を知ること。
金庫を開けること。
その二つは、同じではない。
三日前の自分は、
番号にはたどり着いてほしい。
しかし、
金庫そのものは開けてほしくない。
もしそうだとしたら――
目的は中身ではない。
暗証番号を突き止める過程そのものに、意味がある。
圭介はノートの「4721」を丸で囲んだ。
金庫を開けるためではない。
三日前の自分が何を考えていたのかを知るために。
圭介は、四桁の数字の意味を調べることにした。

