最初に気づいたのは、金庫だった。
朝七時十二分。
目覚ましを止めた三浦圭介は、ベッドから起き上がり、何気なく部屋を見渡した。
いつもと変わらない朝だった。
カーテンの隙間から差し込む光。
昨夜、途中まで読んで閉じた本。
テーブルに置いたままのマグカップ。
椅子の背に掛けたシャツ。
そして――
机の横に、小さな黒い箱が置かれていた。
「……なんだ、これ」
圭介はベッドから降りた。
箱は膝ほどの高さしかない。
黒い金属製で、正面には数字を入力するためのボタンが並んでいる。
金庫だった。
圭介はしばらく、その場に立ったまま金庫を見つめた。
見覚えがない。
少なくとも、
そこに金庫を置いた記憶はなかった。
圭介は一人暮らしをしている。
築十二年のマンション。
間取りは1LDK。
ここへ引っ越してきて四年になる。
家具の配置はほとんど変えていない。
ベッド。
机。
本棚。
テレビ。
ローテーブル。
必要最低限のものしか置かない性格だった。
だから、金庫のような目立つものが突然増えていれば、気づかないはずがない。
圭介は金庫の前にしゃがんだ。
正面にはメーカー名。
その下にテンキー。
数字は0から9まで。
さらに「LOCK」と「OPEN」と書かれた二つのボタンがある。
鍵穴はない。
暗証番号だけで開けるタイプらしい。
圭介は試しに取っ手を引いた。
当然、開かない。
「誰かが置いた……?」
口に出してから、その可能性を自分で否定した。
玄関の鍵は閉まっていた。
窓も施錠されている。
そもそも昨夜、帰宅してから誰も部屋へ入れていない。
圭介は立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアを確認する。
鍵はかかっている。
チェーンも内側からかかっていた。
ベランダの窓も確認した。
こちらも施錠されている。
侵入された形跡はない。
「じゃあ……いつからある?」
圭介は昨夜の記憶をたどった。
午後七時すぎに帰宅。
コンビニで買った弁当を食べた。
シャワーを浴びた。
十一時ごろまで本を読んだ。
そのままベッドへ入った。
机の横を何度も通っている。
もし金庫が置いてあったなら、絶対に気づく。
少なくとも――
そう思った。
圭介はスマートフォンを手に取った。
金庫のメーカー名を検索する。
すぐに同じ型の商品が見つかった。
家庭用の小型電子金庫。
暗証番号は四桁から八桁。
登録した番号を入力して「OPEN」を押せば開く。
問題は、その番号だった。
圭介にはまったく心当たりがない。
誕生日。
携帯番号の下四桁。
マンションの部屋番号。
よく使う暗証番号。
いくつか候補は浮かんだ。
だが、適当に試す気にはなれなかった。
なぜなら――
そもそも、この金庫を自分が買った記憶がない。
そのときだった。
圭介は机の引き出しを開けた。
保証書か説明書のようなものがないかと思っただけだった。
一段目。
文房具。
二段目。
古い書類。
三段目。
そこで手が止まった。
白い封筒が入っていた。
中には、一枚のレシート。
圭介はそれを取り出した。
購入日は――
三日前。
商品名も金庫と一致している。
購入店舗は、自宅から車で十五分ほどのホームセンター。
さらに保証書も入っていた。
購入者欄には、
三浦圭介
と書かれている。
圭介は眉をひそめた。
「俺が……買った?」
財布を確認する。
レシートに記載されたクレジットカードの下四桁。
自分のカードと一致している。
つまり、
誰かが勝手に買って部屋へ置いたわけではない。
この金庫を買ったのは、自分だった。
それなのに、買った記憶がない。
圭介はスマートフォンのカレンダーを開いた。
三日前。
特に予定は入っていない。
写真も確認した。
何もない。
メッセージの履歴にも、それらしいものはなかった。
「どういうことだよ……」
圭介はもう一度レシートを見る。
購入時刻。
午後六時四十三分。
その時間、自分は何をしていた?
思い出そうとする。
仕事を終えた。
会社を出た。
車に乗った。
そこまでは覚えている。
だが、そのあとが曖昧だった。
気づけば自宅で夕食を食べていた。
ただ、それだけだ。
圭介は金庫の前へ戻った。
自分で買った。
自分で部屋へ運んだ。
おそらく、自分で暗証番号も設定した。
ならば、中に何を入れたのか。
圭介は金庫の上に手を置いた。
冷たい金属の感触。
持ち上げてみる。
重い。
金庫そのものの重量だけではないような気がした。
何か入っている。
「……何を入れた?」
答えは出ない。
そのとき、圭介は床に白いものが落ちていることに気づいた。
机の下。
小さく折り畳まれた紙だった。
拾い上げる。
広げた瞬間、
圭介の動きが止まった。
そこには、黒いペンで一行だけ書かれていた。
絶対に金庫を開けるな。
圭介は何度も読み返した。
短い文章。
それだけだった。
だが、問題は内容ではない。
その文字だった。
「……俺の字だ」
間違えるはずがない。
圭介には、自分でも自覚している書き癖があった。
「金」の最後の横画を、ほかより少し長く引く。
「庫」の縦画は、わずかに右へ傾く。
そして「な」の最後は、少し鋭く跳ね上げる。
目の前の文字には、その癖がすべて出ていた。
念のため、圭介は机から普段使っているメモ帳を取り出した。
以前、自分で書いた買い物メモを開く。
金曜日 倉庫 なくなった電池を買う
偶然にも、比較できる文字がいくつかあった。
二枚の紙を並べる。
横画の長さ。
縦画の傾き。
最後の跳ね。
よく似ている、という程度ではなかった。
「……間違いない」
誰かが真似して書いたのでなければ、
この警告を書いたのは自分だった。
圭介は床に座った。
目の前には、
自分で買った金庫。
自分で設定したはずの暗証番号。
そして、
自分で書いた警告。
しかし、そのどれも覚えていない。
奇妙なのは、それだけではなかった。
もし本当に開けてはいけないのなら、
なぜ金庫を捨てなかったのか。
なぜ暗証番号を完全に消してしまわなかったのか。
そして何より――
なぜ、わざわざ自分の部屋に置いたのか。
圭介は金庫を見つめた。
中に何が入っているのか。
それを知りたい。
だが同時に、
三日前の自分は、
今の自分がそう思うことまで分かっていたのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
だから警告を残した。
「絶対に金庫を開けるな」
圭介はメモを裏返した。
何も書かれていない。
再び表に戻す。
そこで、ふと気づいた。
この警告には、
「中を見るな」とは書かれていない。
書かれているのは、
「金庫を開けるな」
それだけだった。
圭介はもう一度、金庫のテンキーを見た。
そして初めて考えた。
問題は、
中に何が入っているのかではないのかもしれない。
三日前の自分は、
なぜ金庫を買ったのか。
なぜ暗証番号を忘れたのか。
そして――
なぜ未来の自分に、金庫を開けさせたくなかったのか。
圭介はメモを握ったまま、しばらく動けなかった。

