修一は、動けなかった。
机。
時計。
カーテン。
窓。
これまで「鏡の中でずれている」と思っていたものを、一つずつ見る。
そして、床に伏せた姿見へ目を向けた。
修一は鏡を起こした。
元の場所には戻さず、両手で支えて部屋へ向ける。
机。
時計。
カーテン。
本。
いつもの寝室が映る。
だが、修一にはまだ違って見えた。
現実の部屋と、鏡の中の部屋。
わずかに位置がずれている。
「鏡が……元の部屋を映してる?」
口にしてから、修一は首を振った。
そんなはずがない。
鏡に記憶などない。
過去の部屋を映すこともできない。
鏡はただ、
今そこにある光を反射しているだけだ。
ならば。
これまでの考え方そのものが間違っていたことになる。
修一はスマートフォンを取り出した。
これまで撮影した写真を開く。
どの写真にも、異変は残っていない。
時計は正常。
カーテンも正常。
本も正常。
黒い点もない。
修一はずっと、そのことを不気味に感じていた。
肉眼では見えるのに、なぜカメラには写らないのか。
だが。
逆だった。
「写真の方が……正しかった?」
カメラが異変を捉えられなかったのではない。
写真に写っているものこそ、その瞬間の部屋だった。
では。
なぜ鏡を肉眼で見たときだけ、違って見えたのか。
修一は床を見る。
姿見の前に貼ったテープ。
毎朝立っていた場所。
異変が最もはっきり見えた一点。
そこへ立った。
姿見を元の位置へ戻す。
鏡を見る。
そして、視線を窓へ移した。
「……光?」
朝六時四十分。
決まった時刻。
決まった立ち位置。
そして、決まった方向から差し込む朝の光。
修一はカーテンへ近づいた。
閉める。
鏡を見る。
異変が弱くなる。
少し開ける。
再び、時計の輪郭がわずかにずれて見える。
もう一度閉める。
消える。
「そういうことか……」
原因の一つは、
朝の光だった。
だが、それだけではない。
光が当たっただけで、本や時計の位置まで変わって見えるはずがない。
修一は姿見へ近づいた。
正面。
斜め。
横。
見る角度を変える。
さらにスマートフォンのライトを鏡へ斜めから当てた。
その瞬間。
時計の輪郭が二重になった。
「……これか」
よく見ると、鏡の表面に弱い像がある。
その少し奥に、もう一つ鮮明な像。
一般的な鏡は、ガラスの裏側に反射膜がある。
そのため条件によっては、ガラス表面の弱い反射と、裏側の反射膜による像がわずかに重なる。
さらに、この姿見には別の問題があった。
裏側を調べる。
湿気による劣化。
わずかな反り。
そして、姿見が固定されていた壁そのものにも微妙な傾きがある。
一つ一つなら、気づくほどではない。
だが。
低い角度から差し込む朝の光。
カーテンの隙間。
鏡のわずかな歪み。
そして修一の立ち位置。
それらが重なったときだけ、
像の一部が二重になり、位置がずれて見えていた。
時計が動く。
カーテンの幅が変わる。
本が傾く。
実際に動いていたわけではない。
ずれて重なった像の片方を、修一が本物だと思って見ていたのだ。
カメラに写らなかった理由も、それで説明できた。
修一はスマートフォンを顔の前に構える。
その瞬間、カメラのレンズは修一の目と同じ位置にはない。
数センチずれる。
試しにスマートフォンを自分の右目とほぼ同じ位置まで持ち上げる。
角度を慎重に合わせる。
画面の中で、
時計の輪郭がほんのわずかに二重になった。
「……写る」
カメラに異変が写らなかったのではない。
撮影するときにレンズの位置を変えてしまっていた。
修一は初めて納得した。
黒い点が決まった位置からしか見えなかったのも同じだ。
すべては見る角度に左右されていた。
「じゃあ……扉は?」
まだ説明できていないものがある。
黒い点。
黒い線。
銀色の点。
そして壁の中の空間。
修一は隠し扉を開いた。
ライトをつけ、もう一度中を調べる。
古い配線。
使われなくなった金具。
換気設備の跡。
狭い空間は、人が潜むための場所ではなかった。
昔の設備スペースだ。
マンションが改修された際、不要になった空間を壁で塞いだのだろう。
隠し扉も、そのとき壁紙で覆われた。
修一は寝室へ戻った。
ベッド脇の壁をライトで斜めから照らす。
細い縦筋。
今なら分かる。
壁紙の継ぎ目だ。
その近くには、壁紙の下から古い金具の頭がわずかに浮き出ている。
鏡の歪み。
朝の斜光。
見る角度。
それらが重なることで、
継ぎ目は黒い線に。
金具は銀色の点に見えていた。
扉が毎朝少しずつ現れていたわけではない。
扉は最初からそこにあった。
修一が「何かある」と意識し始めたことで、
それまで見落としていた細部を少しずつ認識するようになっただけだった。
残る謎は二つ。
現実で動いた本。
そして、
壁の中から見つかったノート。
まず修一は机へ向かった。
本の位置を確認する。
確かに、前夜につけた印からずれている。
だが。
よく見ると、おかしい。
「……印?」
鉛筆の線は、机そのものについているわけではなかった。
机を傷つけないために敷いていた薄い透明シート。
その上に書いてある。
シートがずれていたのだ。
修一は本を元の位置へ置いた。
しばらく待つ。
わずかだが、本が動く。
「傾いてるのか」
床を確認する。
ほんのわずかな傾斜がある。
机も完全には水平ではない。
伏せた本の表紙と透明シートは滑りやすかった。
時間をかけて数センチ動いた。
それだけだった。
修一は椅子へ座った。
力が抜けた。
一度、
「鏡の向こうに何かいる」
と思ってしまった。
そのせいで、
本が滑ったことまで同じ怪異の一部だと思い込んでいた。
そして最後。
ノート。
修一は壁の中から持ち出した古いノートを机に置いた。
今度は最初のページから、ゆっくり読む。
数字。
簡単な図。
壁の長さ。
床からの高さ。
窓の位置。
配線。
修一はページをめくった。
『北壁、図面と合わず』
次のページ。
『旧設備スペースあり。塞ぎ処理』
さらに、
『午前、窓側から反射強し』
その下に小さく、
『鏡設置位置、要確認』
と書かれている。
「工事の記録……」
ようやく分かった。
このノートを書いた人間は、
修一と同じ現象を経験したわけではない。
この部屋を改修した作業員だった。
ページの途中には、姿見らしき長方形と窓を線で結んだ簡単な図がある。
その横には、
『立位置で見え方変化』
という走り書き。
朝の光によって、鏡が見づらくなることに工事の段階で気づいていたのだ。
そして最後のページ。
修一が最も気になっていた言葉。
『鏡を信用するな。』
修一はその下を指でなぞった。
汚れを払う。
続きが読めた。
『水平確認は水平器を使用』
「……そういう意味か」
怪異への警告ではない。
鏡を使って壁が真っすぐかどうか判断するな。
工具を使え。
ただの作業上の注意だった。
もう一つ。
『間違っているのは、鏡ではない。』
その下にも、小さな文字が続いている。
『北壁の寸法。図面との差あり。要修正』
修一はしばらく黙っていた。
それから、
小さく笑った。
「全部……俺が勝手に意味をつけてたのか」
怪異を疑って読めば、
警告に見える。
工事記録だと分かって読めば、
何の変哲もない作業メモだった。
数日後。
管理会社が部屋を確認した。
壁の中の空間は、過去の改修工事で塞がれた設備スペースだった。
図面と実際の寝室の寸法が違っていたのも、その改修が原因。
床の傾きも確認された。
生活に支障が出るほどではなかったが、机の位置によっては軽い物が滑る程度の傾斜があった。
そして姿見。
長年の使用によってわずかな反りと劣化が生じていた。
修一は処分することにした。
数日後。
新しい姿見が届いた。
以前より少し小さい。
置く場所も変えた。
朝六時四十分。
目覚ましが鳴る。
修一はベッドから起きた。
カーテンを開ける。
朝の光が部屋へ差し込む。
姿見の前に立つ。
時計。
カーテン。
机。
本。
何もおかしくない。
修一はネクタイを締めた。
「……よし」
玄関へ向かう。
ドアを開ける。
そこで一度だけ振り返った。
新しい鏡の中に、
いつもの部屋が映っている。
何の間違いもない。
修一はドアを閉めた。
誰もいなくなった部屋。
机の上には、一冊の推理小説。
壁には時計。
窓には灰色のカーテン。
そして、
新しい鏡。
鏡は最初から、
何も間違えていなかった。
間違っていたのは、
鏡の中に答えがあると決めつけ、
無関係な出来事まで一つにつなげてしまった――
修一の推理だった。

