コツ。
修一は姿見を見つめた。
布は掛かったままだ。
数秒待つ。
何も聞こえない。
「……鏡の裏?」
自分で口にして、その言葉のおかしさに気づいた。
姿見は壁に固定してある。
裏側に人が入れるような隙間などない。
それでも修一は近づいた。
布をつかむ。
一気に引き下ろす。
鏡が現れた。
いつもの部屋。
時計。
カーテン。
机。
ベッド。
すべて正常だった。
もちろん、扉もない。
修一は鏡の縁へ手を掛けた。
壁との隙間を覗く。
数ミリしかない。
誰かが隠れているはずなどなかった。
「じゃあ、今の音は……」
コツ。
また鳴った。
今度は修一にも分かった。
鏡ではない。
その隣。
壁の中からだった。
修一は姿見を壁から外した。
三年間、一度も動かしたことがなかった。
床へ慎重に寝かせる。
鏡があった場所には、白い壁紙が現れた。
何もない。
修一は壁を叩いた。
コツ。
コツ。
コン。
「ここだ」
一部分だけ音が軽い。
だが妙だった。
昨日調べたベッド脇の壁も同じ音がした。
離れた二か所。
修一は部屋を見回した。
姿見があった壁。
ベッド脇の壁。
二つの場所に空洞がある。
「配管……?」
そう考えたが、位置がおかしい。
修一はスマートフォンを取り出した。
この部屋を借りたときにもらった資料を探す。
契約書。
設備説明。
そして間取り図。
画面に表示された図面を見て、
修一の指が止まった。
「……あれ?」
寝室を見る。
図面を見る。
もう一度、寝室を見る。
何かが合わない。
修一はメジャーを取り出した。
寝室の横幅を測る。
次に縦。
数字をメモする。
図面に記載された寸法と比較する。
「……狭い」
わずかではない。
数センチでもない。
図面上の寝室より、
実際の部屋の方が約四十センチ狭かった。
修一はベッド脇の壁を見た。
四十センチ。
人が普通に暮らせるほどではない。
だが。
壁の裏に空間を作るには十分な幅だった。
修一は急に、鏡の中に現れた扉を思い出した。
黒い点。
縦線。
横線。
銀色の点。
あれは「鏡の向こうの部屋」に現れたものではなかった。
もしかすると――
現実の壁の中にある何かを、
自分は鏡の中で見ていたのではないか。
「でも……なんで?」
説明になっていない。
なぜ鏡にだけ見える。
なぜ六時四十分なのか。
なぜ時計や本までずれる。
そして。
なぜ写真には写らない。
修一は床に座り込んだ。
一つ分かると、謎が増えた。
その日の夜。
修一は眠らなかった。
机の本を、鉛筆で囲むように印をつける。
カーテンにも印。
時計にも印。
そして姿見は壁へ戻さなかった。
床に寝かせたままにした。
もし鏡そのものが原因なら。
明日の朝は何も起こらないはずだ。
午前六時三十九分。
修一は机の前に座っていた。
スマートフォンの時計を見る。
6:40。
何も起こらない。
当然だ。
姿見は床に伏せてある。
修一は本を見る。
動かない。
カーテン。
変わらない。
時計。
変わらない。
一分。
二分。
「やっぱり鏡が……」
そのときだった。
コツ。
壁の中から音がした。
修一は立ち上がった。
コツ。
ベッド脇。
例の縦筋がある場所だ。
修一は近づいた。
そして気づいた。
壁紙の縦筋が、
昨日より長くなっている。
「……」
鏡はない。
それなのに変化している。
修一は指を当てた。
その瞬間。
壁の内側から――
カチッ。
金属が外れるような音がした。
修一は手を引いた。
壁の一部が、
数ミリだけ手前へ浮いた。
「嘘だろ……」
縦筋だと思っていたものは、
壁紙の傷ではなかった。
境目だった。
修一は指を差し込んだ。
ゆっくり引く。
白い壁の一部が動いた。
そこには、
小さな扉が隠されていた。
扉の向こうは暗かった。
修一はスマートフォンのライトをつけた。
幅は四十センチほど。
奥行きは寝室の壁に沿って続いている。
人が横向きなら通れる。
修一は入口に立ったまま、中を照らした。
埃。
古い木材。
むき出しのコンクリート。
そして――
床に何か落ちている。
修一は手を伸ばした。
拾う。
小さな金属部品だった。
さらに奥を見る。
細い棒。
糸のようなもの。
古い滑車。
「何だ、これ……」
誰かが使っていた。
そうとしか思えない。
修一は狭い空間へ入った。
横向きになって進む。
数歩。
そこで立ち止まった。
目の前に、
もう一枚の板があった。
その向こう側は――
姿見を掛けていた壁だった。
修一の呼吸が浅くなる。
つまり。
姿見の裏と、ベッド脇の隠し扉は、
壁の中でつながっていた。
「じゃあ……」
コツ、という音。
鏡の裏から聞こえたと思った音。
実際には、この空間を伝って聞こえていた。
鏡の向こうに誰かがいるわけではない。
壁の中に空間があった。
だが。
それだけでは説明できない。
本が動いた理由。
鏡像がずれた理由。
六時四十分。
何一つ解決していない。
修一はさらにライトを奥へ向けた。
そして――
動きを止めた。
壁に、小さな棚が取り付けられている。
その上に、
古いデジタル時計が置かれていた。
表示は消えている。
電池も入っていない。
その横には、
一冊のノート。
修一は手に取った。
埃を払う。
表紙には何も書かれていない。
最初のページを開く。
数字が並んでいた。
6:40
その下に、
時計
次の行。
6:41
カーテン
さらに。
6:42
本
修一の手が止まった。
自分がノートに記録したものと、
ほとんど同じだった。
「なんで……」
ページをめくる。
何日分も記録がある。
そして最後のページ。
そこに一文だけ書かれていた。
修一は息を止めた。
『鏡を信用するな。』
その下には、
もう一行あった。
『間違っているのは、鏡ではない。』
修一はしばらく文字を見つめた。
そのとき。
背後で音がした。
カタン。
修一は振り返った。
誰もいない。
狭い空間。
暗闇。
自分一人。
ライトを入口へ向ける。
開けたはずの扉が――
ゆっくりと閉じ始めていた。
修一は慌てて戻った。
扉を押さえ、寝室へ転がり出る。
直後。
バタン。
扉が閉まった。
修一は床に座り込んだ。
息を整える。
そして。
何気なく机を見た。
本がある。
斜めになっている。
だが、今度は驚かなかった。
修一は本へ近づいた。
鉛筆でつけた印を見る。
本は確かに動いている。
数センチ。
そこで修一は、初めて別のことに気づいた。
「……待てよ」
本だけではない。
机そのものが、
印をつけた床の位置から、
わずかにずれていた。
修一は時計を見る。
壁の時計。
昨日印をつけた位置と違う。
カーテンも。
窓そのものも。
修一はゆっくりと部屋全体を見回した。
これまでずれていると思っていたのは、
鏡の中の物ではなかった。
現実の部屋の方が、少しずつ動いていた。
鏡は――
それを間違って映していたのではない。
修一が覚えている、
「元の部屋」を映していたのだ。

