『甘い眩暈』消えていなかった時間

『甘い眩暈』消えていなかった時間のタイトル画像。 短編ミステリー
『甘い眩暈』― 消えていなかった時間

八月十九日、水曜日。

圭介は朝から、昨夜ノートに書いた一文を何度も考えていた。

本当に、二十分は消えているのか?

映像には、自分が動いている姿が残っている。

それなら時間そのものが消えたわけではない。

消えたのは、自分の記憶。

そう考えるのが普通だ。

だが、記憶のない自分はこう書いている。

「時刻を確認すると、また間違える。」

何を間違えるのか。

圭介は仕事から帰ると、これまでの記録をすべてテーブルに並べた。

ノート。

二枚のメモ。

スマートフォン。

腕時計。

そして、最初から部屋に掛かっている壁時計。

四回の異変を、もう一度整理する。

8月13日(木)

21時10分にチョコレート。

次の認識は21時30分。

8月16日(日)

15時05分ごろにキャンディー。

次の認識は15時27分。

8月17日(月)

20時43分にチョコレート。

次の認識は21時03分。

8月18日(火)

20時14分にキャンディー。

次の認識は20時35分。

二十分。

二十二分。

二十分。

二十一分。

完全には一致していない。

これまでは「だいたい二十分」と考えていた。

しかし、本当に重要なのは長さではないのかもしれない。

圭介は最初の記録を見た。

21:10 → 21:30

二回目。

15:05 → 15:27

三回目。

20:43 → 21:03

四回目。

20:14 → 20:35

「……ばらばらだ」

数字だけでは規則性が見えない。

圭介は椅子にもたれた。

そのときだった。

テーブルの上に置いたスマートフォンの画面が点灯した。

19:48

何気なく壁時計を見る。

同じ19時48分。

腕時計も同じ。

昨日と同じだ。

三つとも一致している。

だから時計は正しい。

そう思った瞬間、圭介の手が止まった。

「三つとも……?」

昨日、自分はそれで安心した。

壁時計。

腕時計。

パソコン。

三つが一致していた。

だが――。

三つが一致していることと、

三つが正しいことは同じではない。

圭介はスマートフォンを手に取った。

設定画面を開く。

日時。

自動設定 オン

当然だ。

通信によって正しい時刻に合わせられている。

少なくともスマートフォンだけは、壁時計とは独立している。

なら、問題は時計ではない。

圭介は再び映像を開いた。

昨夜の実験。

20時14分。

キャンディーを食べる。

その直前、自分はカメラへ向かって時刻を読み上げている。

圭介は音量を上げた。

「八時十四分」

間違いなく自分の声だ。

映像を進める。

20時15分。

眩暈。

そこから自分は普通に動いている。

20時35分。

驚いた顔で時計を見る。

つまり、二十一分間の行動を覚えていない。

結局、最初の仮説へ戻ってしまう。

「やっぱり記憶が……」

そこで圭介は映像を止めた。

何かがおかしい。

昨夜、自分は三つの時計をカメラに映した。

壁時計。

腕時計。

パソコン。

だが――。

スマートフォンそのものの時刻は映っていない。

録画しているのだから当然だった。

圭介は動画の詳細情報を開いた。

撮影開始時刻。

そこに表示された数字を見て、動けなくなった。

20:35

「……え?」

圭介は画面を見つめた。

動画の中では、自分が、

「八時十四分」

と言っている。

壁時計も20時14分。

腕時計も20時14分。

パソコンも20時14分。

だがスマートフォンが記録した動画ファイルの開始時刻は、

20時35分。

二十一分違う。

昨日、自分が「記憶を取り戻した」と思った時刻と同じだった。

圭介は背筋が冷たくなるのを感じた。

動画を最初から再生する。

画面の時計は20時14分。

しかし実際には――。

その時点ですでに20時35分だった。

「じゃあ……」

圭介は立ち上がった。

壁時計を外す。

裏側を見る。

時刻合わせのボタン。

特別なものはない。

次に腕時計。

そしてパソコン。

三つとも、昨夜は二十一分遅れていた。

だが今はスマートフォンと一致している。

誰かが直した?

この部屋にいるのは自分だけだ。

答えは一つしかなかった。

自分で直した。

その記憶がないだけだ。

圭介は昨夜の映像をさらに確認した。

キャンディーを食べたあと。

机へ行く。

ノートに何かを書く。

キッチンへ行く。

水を飲む。

机へ戻る。

だが、映像には壁時計を操作する姿はない。

「違う……」

圭介は呟いた。

直したのは、記憶のない二十一分間ではない。

その前だ。

キャンディーを食べる前から、時計は遅れていた。

つまり。

自分は20時35分にキャンディーを食べながら、

20時14分だと思っていた。

そして眩暈のあと、20時35分を見て、

二十一分間が飛んだと思い込んだ。

だが、それではまだ説明できない。

映像には、そのあと二十一分間、自分が動いている姿がある。

圭介は動画の再生時間を確認した。

そこで、もう一つの違和感に気づいた。

動画は、

二十一分では終わっていない。

総再生時間は、

四十二分十三秒。

「……なんで?」

圭介はタイムラインを指で動かした。

前半。

キャンディーを食べる。

机へ行く。

ノートを書く。

キッチンへ行く。

ソファへ戻る。

そして――。

自分が驚いた顔で時計を見る。

ここまで約二十一分。

昨夜、圭介はここで動画を見るのをやめていた。

自分の空白時間が映っていると思い、それ以降を確認する必要がないと思ったからだ。

しかし動画は続いている。

圭介は再生した。

映像の中の自分がスマートフォンへ近づく。

録画を止めようとする。

だが、一度手を止める。

何かを考えるようにカメラを見る。

そして机へ戻る。

ノートを開く。

何かを書く。

さらに壁時計へ近づいた。

圭介は息を止めた。

映像の中の自分が時計を外す。

針を動かしている。

二十一分、進めている。

次に腕時計。

さらにパソコン。

三つの時計を、実際の時刻へ戻していく。

そして最後にカメラの前へ戻った。

映像の中の圭介が、レンズを見た。

口が動く。

音量を上げる。

自分の声が聞こえた。

「これで、次の俺は二十一分消えたと思う」

圭介の指が止まった。

映像の中の自分は続けた。

「でも、消えてない」

圭介は画面を凝視した。

「最初から時計が遅れていただけだ」

そこで映像の自分は録画を止めた。

圭介はしばらく動けなかった。

では、記憶が飛んだと思っていた二十一分は存在しなかった。

少なくとも、

「20時14分から20時35分まで突然飛んだ」

という認識は間違っていた。

だが、新しい問題が残る。

映像の中で普通に行動していた時間を、なぜ覚えていないのか。

そもそも――。

なぜ自分は事前に時計を二十一分遅らせたのか。


圭介はノートを最初から調べた。

ページを一枚ずつめくる。

8月13日。

8月16日。

8月17日。

8月18日。

何度見ても同じ記録。

だが、最後のページまで来たところで違和感を覚えた。

裏表紙がわずかに浮いている。

指を入れる。

薄い紙が一枚挟まっていた。

折り畳まれたメモ。

開く。

そこには自分の字で、こう書かれていた。

「ここまで気づいたなら、甘いものを調べろ。」

その下。

「何を食べたかじゃない。」

さらに一行。

「いつから、それがそこにあった?」

圭介は顔を上げた。

チョコレート。

キャンディー。

どちらも自分の部屋にあった。

自分で買ったと思っていた。

だが、本当にそうなのか。

圭介はゴミ箱からレシートを集めた。

チョコレートの購入記録。

8月12日。

確かにある。

自分の電子決済履歴にも残っている。

次にキャンディー。

レシートがない。

購入履歴にもない。

圭介は棚から袋を取り出した。

レモンキャンディー。

十二個入りだった。

今は十個。

二個食べた。

計算は合う。

袋を眺める。

そこで、圭介は気づいた。

袋の裏側。

透明なテープが貼られている。

一度開封した袋を、きれいに閉じ直したような跡。

「なんだ、これ……」

テープを剥がす。

袋の内側から、小さく折り畳まれた紙が落ちた。

圭介は拾った。

開く。

また、自分の字。

だが今度の文章は短かった。

「甘いものは合図だ。」

その下に、

「味に意味はない。」

圭介の心臓が強く打った。

やはり。

チョコレートにもキャンディーにも、記憶を消す力などない。

甘いものを食べたから、記憶が飛んだわけではない。

では、何の合図なのか。

紙には続きがあった。

「甘さを感じたら、俺は時計を疑う。」

そして最後。

圭介はその一文を読んで、息を止めた。

「眩暈がしたら、記憶ではなく、その直前の時刻を疑え。」

圭介は壁時計を見た。

現在時刻。

スマートフォンを見る。

一致している。

それでも、もう信用できなかった。

そしてようやく理解した。

甘いもの。

眩暈。

消えた時間。

これまで自分が追っていた三つの現象は、一つの原因から起きているのではない。

誰かが仕掛けたものでもない。

過去の自分が、現在の自分に「時刻の矛盾」を発見させるため、意図的に組み合わせたものだった。

だが、最大の謎だけが残っている。

なぜ。

なぜ自分は、こんな回りくどい方法を使った?

普通にノートへ真相を書けばいい。

未来の自分へ説明を残せばいい。

それをしなかった。

むしろ、簡単には真相へ辿り着けないようにしている。

圭介は最初に見つけた紙を取り出した。

「忘れるために、甘いものを食べた。」

今なら、少しだけ意味が違って見える。

これは説明ではない。

警告だったのではないか。

圭介は紙を裏返した。

何も書かれていないと思っていた裏面。

光に透かすと、薄く筆圧の跡が見えた。

別の紙を重ねて書いた跡だった。

鉛筆を寝かせ、表面を軽く擦る。

少しずつ文字が浮かび上がる。

圭介は途中で手を止めた。

そこには、こう残っていた。

「全部思い出したら、また最初からやり直すことになる。」

そして、その下。

「だから俺は、自分から忘れることにした。」

圭介は紙を握ったまま動けなかった。

これまで考えていた問いが、完全に逆になった。

なぜ記憶が消えるのか。

ではない。

本当に解かなければならない謎は――。

なぜ自分は、そこまでして忘れたかったのか。

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