「先生」
僕は言った。
「まだ、僕に隠してることがありますよね」
先生は答えなかった。
旧校舎三階の資料室。
夕方の光が、薄暗い部屋の中へ斜めに差し込んでいる。
机の上には、二〇一二年度の図書委員会資料。
黒いノート。
そして十四年近く前の水城澪が写った写真。
先生は長い間、その写真を見つめていた。
やがて、小さく息を吐いた。
「……そうね」
その声は、もう司書としてのものではなかった。
十四年前の高校生が、そのまま話しているように聞こえた。
「私は嘘をついた」
「どこからですか?」
「琴音が選んだ本を知らなかった、というところ」
やはり。
僕は何も言わず、続きを待った。
「あなたが見つけた六冊。あれは全部、私が高校生のときに借りた本よ」
「それは貸出カードを見れば分かります」
「でも、自分で選んだわけじゃない」
「え?」
先生は黒いノートへ目を落とした。
「琴音に頼まれたの」
二〇一二年十一月。
高瀬琴音は、自分が学校にいられなくなる可能性を考えていた。
教師の不正を調べていることが、学校側に知られ始めていたからだ。
そこで琴音は、親友だった水城澪に何冊もの本を渡した。
「これ、全部借りて」
理由は教えなかった。
ただ、
自分の名前を貸出カードに残してほしい
と言った。
「どうして私の名前?」
当時の水城澪は尋ねた。
琴音は笑った。
「澪なら、いつか思い出すから」
その意味を、水城は理解できなかった。
それでも頼まれた通り、一冊ずつ本を借りた。
推理小説。
天文学。
郷土史。
詩集。
写真集。
植物図鑑。
だから貸出カードには、同じ時期の「水城澪」という名前が残った。
その直後。
琴音は学校から姿を消した。
「じゃあ先生は、この本が琴音に関係していることを知っていた」
「ええ」
「なのに、証拠の場所は知らなかった?」
「本当に知らなかった」
先生は答えた。
「私はただ、本を借りただけだったから」
「ページの印は?」
「琴音がつけたものよ。ずっとあとになって気づいた」
先生が母校へ司書として戻ったのは、数年前だった。
図書館には、十四年前と同じ本がまだ残っていた。
水城澪という旧姓。
自分が借りた六冊。
それを偶然見つけた先生は、琴音との約束を思い出した。
そして本を調べ始めた。
十七ページ。
四十二ページ。
八ページ。
三十一ページ。
残された文字。
つなげると、
キュウコウシャ
になる。
そこまでは先生自身も解いた。
さらに別の本を見つけ、
キュウコウシャ サンカイ シリョウシツ
までたどり着いた。
そして、この黒いノートを発見した。
「だったら、もう全部分かっていたじゃないですか」
「いいえ」
先生は首を振った。
「ここで止まったの」
黒いノートの最後。
最後の本は、私が一番好きだった場所にある。
「これが分からなかった」
「図書館じゃないんですか?」
「私もそう思った」
先生は何度も図書館を探したという。
自分が高校時代によくいた席。
図書委員会の棚。
カウンター。
窓際。
旧校舎の図書準備室。
だが何も見つからなかった。
「十三年以上、分からなかった」
「だから僕を使った?」
先生は少しだけ顔を歪めた。
「……そう」
僕が図書館によく来ること。
貸出カードを見る癖があること。
本の小さな違和感に気づくこと。
先生はそれを見ていた。
だから、水城澪という名前を使い、僕が同じ六冊を手に取るよう仕向けた。
「自分では見つけられない答えを、僕なら見つけられるかもしれないと思った」
「そうよ」
「でも先生」
僕は黒いノートを開いた。
最後の一文を見る。
最後の本は、私が一番好きだった場所にある。
何度読んでも、妙な感じがした。
そして気づいた。
「先生」
「何?」
「これ……先生がずっと勘違いしてたんじゃないですか?」
「勘違い?」
「この文章を書いたのは誰ですか?」
「琴音よ」
「だったら」
僕は一文を指さした。
「『私』って、先生じゃないですよね」
先生が動かなくなった。
「……え?」
「先生はずっと、水城澪が好きだった場所を探していた」
でも文章を書いたのは、高瀬琴音。
つまり、
私が一番好きだった場所。
その「私」は、
高瀬琴音だ。
先生の顔色が変わった。
「琴音の……好きだった場所」
「どこですか?」
先生はすぐには答えなかった。
記憶を十四年前までたどっているようだった。
やがて呟く。
「窓……」
「窓?」
「琴音は、いつも窓際にいた」
図書館の一番奥。
南側の窓。
放課後になると夕日が差し込む席。
高瀬琴音は、そこで本を読むのが好きだった。
だが、それだけではない。
先生は突然、顔を上げた。
「本」
「何ですか?」
「あの子、いつも同じ本を読んでた」
「タイトルは?」
先生はしばらく考えた。
そして言った。
「『銀河鉄道の夜』」
僕たちは旧校舎を出た。
図書館へ戻ったころには、外は薄暗くなり始めていた。
誰もいない図書館。
先生が照明をつける。
一番奥。
南側の窓際。
そのすぐ横に、日本文学の棚がある。
宮沢賢治。
何冊か並んでいる。
先生が一冊ずつ背表紙を見る。
「違う」
次。
「これも違う」
そして、一冊だけひどく古びた本があった。
『銀河鉄道の夜』
僕は取り出した。
ページは黄ばんでいる。
表紙も擦れていた。
最後のページを開く。
貸出カード。
そこには、何人もの名前。
古い記録。
そして、
二〇一二年十月二十六日 高瀬琴音
先生の指が震えた。
「琴音……」
僕はカードを見る。
水城澪の名前はない。
今までの本とは違う。
これは――
高瀬琴音自身が借りた本だ。
本を調べる。
ページの間。
カバー。
表紙。
何もない。
「ない……」
先生が呟いた。
僕は本を閉じた。
そのとき。
違和感があった。
裏表紙が、少し厚い。
「先生」
「何?」
「この本、修理されたことあります?」
先生が受け取る。
裏表紙。
図書館の本によくある補修テープが貼られている。
だが、一部分だけ貼り方が不自然だった。
先生が慎重に端をめくる。
紙と表紙の間。
薄い隙間。
そこから、小さな茶色い封筒が出てきた。
十四年近く、誰にも見つからなかった封筒。
表には一言。
澪へ
先生の手が止まった。
「……私に」
封を開ける。
中には、数枚のコピー用紙。
学校の備品購入記録。
実際の納品書。
寄付金の出納記録。
数字が合っていない。
そして、小さなUSBメモリ。
さらに、一枚の手紙。
先生は読み始めた。
途中で、声が出なくなった。
僕は手紙を覗かなかった。
しばらくして、先生が僕へ渡した。
短い文章だった。
澪へ。
たぶん、私は学校を辞めることになる。
でも、私は間違ったことをしたとは思っていない。
証拠はここに残します。
もし、いつかこれを見つけたら、誰かに渡してください。
そして最後。
でも、澪が見つけなくてもいい。
怖かったら、そのままでいい。
私は、澪に何かを背負わせたいわけじゃないから。
先生は泣いていなかった。
ただ、ずっと手紙を見ていた。
「十四年近く……」
小さく呟く。
「ずっと、私が見つけなきゃいけないと思ってた」
僕は答えなかった。
「琴音は、そんなこと思ってなかったのね」
窓の外は、もう暗くなっていた。
翌日。
七月十五日、水曜日。
先生は学校長へ資料を提出した。
ただし、学校内部だけで処理されないよう、当時の会計資料と照合できる形で、学校を運営する法人にも同時に提出した。
僕が詳しい結果を知ったのは、それからしばらく経ってからだった。
二〇一二年当時、学校の備品購入を担当していた教員が、特定の業者との取引で金額を水増ししていた記録が確認された。
寄付金の一部についても、不適切な処理があったことが分かった。
当時の関係者への聞き取りも行われた。
そして、高瀬琴音の退学についても、学校が説明していた「家庭の事情」だけではなかったことが確認された。
琴音は不正を告発しようとしたあと、複数の教員から繰り返し退学を勧められていた。
事実上、学校を追われた。
十四年近く前の出来事だった。
すべてを元に戻すことはできない。
それでも学校は、当時の対応に問題があったことを正式に認めた。
夏休み前。
僕は図書館へ行った。
いつもの席。
いつもの静けさ。
先生はカウンターで本を整理していた。
「これ、返します」
僕は最初に借りた推理小説を置いた。
先生は受け取る。
「面白かった?」
「途中から本どころじゃなくなりました」
先生が笑った。
あの日以来、水城澪という名前が新しく貸出カードに書かれることはなくなった。
当然だ。
もう必要がない。
僕は何となく、最初の本を開いた。
貸出カード。
二〇一二年十一月二日。
水城 澪
二〇二六年六月十二日。
水城 澪
そして、その下。
僕の名前。
三つをしばらく眺める。
「先生」
「何?」
「一つだけ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「どうして僕だったんですか?」
先生は少し考えた。
「前にも言ったでしょう?」
「疑うから?」
「それもある」
先生は本を受け取った。
「でも、一番の理由は――」
貸出カードを見る。
「あなた、いつも借りる前にこれを見るでしょう」
「はい」
「今の生徒は、ほとんど見ないのよ」
バーコードで貸し出される今、紙のカードはただの昔の記録だ。
誰が読んだか。
いつ借りたか。
誰も気にしない。
「でもあなたは、昔そこにいた人を見る」
先生は言った。
「だから、見つけてもらえるかもしれないと思った」
僕は少しだけ納得した。
帰ろうとして、窓際を通った。
高瀬琴音が好きだった場所。
夕方になると、西から入る光が机の上へ伸びている。
そこに『銀河鉄道の夜』が置いてあった。
修理を終えて、棚へ戻す前らしい。
僕は何となく貸出カードを取り出した。
二〇一二年十月二十六日 高瀬琴音
十四年近く前の名前。
その下には誰もいない。
僕はカードを戻そうとした。
そこで先生が言った。
「借りていく?」
「これを?」
「ええ」
僕は少し迷った。
そして笑った。
「じゃあ、借ります」
カウンターで手続きを済ませる。
バーコードを読み取る電子音が鳴った。
それだけで終わるはずだった。
けれど先生は、古い貸出カードを取り出した。
「先生?」
「今日は特別」
先生がペンを渡してくる。
「名前、書いてみる?」
今は使われていない貸出カード。
本来なら必要のないことだ。
僕はペンを受け取った。
高瀬琴音。
その名前の下。
十四年近い空白。
僕は今日の日付を書いた。
二〇二六年七月十七日 相沢 湊
カードを見て、ようやく分かった気がした。
最初は、
いつも自分より先に本を借りている人
だと思っていた。
でも違った。
水城澪も。
高瀬琴音も。
僕より先にいた人たちは、僕の本を奪っていたわけじゃない。
自分たちが途中まで読んだ物語を、
誰かが続きを読んでくれるのを待っていた。
僕は『銀河鉄道の夜』を閉じた。
窓の外には、夏の夕暮れが広がっていた。
帰り際、振り返る。
先生はカウンターの向こうで、古い推理小説の貸出カードを見ていた。
もう「水城澪」という名前が、新しく書かれることはない。
それでも。
あの名前がなければ、僕は何も知らなかった。
十四年前に一人の少女が残したものも。
それをずっと忘れられなかった、もう一人の少女のことも。
図書館には、何千冊もの本がある。
その一冊一冊に、
誰かが読んだ跡が残っている。
もしかすると物語というものは、
本の中だけにあるわけではないのかもしれない。
僕は貸出カードに残した自分の名前を思い出しながら、
静かに図書館の扉を閉めた。

