『闇螢』第一部 帰郷

『闇螢』第一部「帰郷」第一章「祖母の葬式」のタイトル画像。 長編ミステリー
『闇螢』― 第一部 帰郷|第一章 祖母の葬式

第一章 祖母の葬式

祖母が死んだのは、蛍の季節が終わったころだった。

八月二十二日、土曜日。

午前六時十三分。

蛍守村の診療所から電話を受けたとき、僕はまだ東京のワンルームにいた。

「相沢澄江さんが、今朝亡くなられました」

受話器の向こうの声は、驚くほど事務的だった。

僕はしばらく返事ができなかった。

悲しかったからではない。

何を言えばいいのか分からなかったのだ。

最後に祖母と会ったのは、十五年前だった。

*

蛍守村へ向かうバスは、一日に四本しかない。

最寄りの駅から一時間ほど揺られ、僕は終点の一つ手前で降りた。

午後三時を少し回っていた。

東京ではまだ息苦しいほどの暑さが残っていたが、山に囲まれたこの村の空気には、わずかに秋の匂いが混じっていた。

バスが走り去る。

エンジン音が遠ざかると、あたりは異様なほど静かになった。

道路。

田んぼ。

古い民家。

遠くに見える山。

記憶にある景色とほとんど変わっていない。

変わったのは、僕のほうだった。

十五年前。

高校二年生だった僕は、夏休みになると母に連れられてこの村へ来ていた。

祖母の家に泊まり、川で泳ぎ、夜になると蛍を見に行った。

あのころは、この村が好きだった。

――あの事件が起きるまでは。

僕はキャリーケースを引きながら歩いた。

アスファルトのひび割れを車輪が拾うたび、ガタガタと音を立てる。

道沿いの用水路から水の流れる音が聞こえていた。

「透?」

突然、名前を呼ばれた。

振り返る。

道路の反対側に、一人の女性が立っていた。

白いブラウスに黒いパンツ。

肩まで伸びた髪。

一瞬、誰なのか分からなかった。

女性は困ったように笑った。

「……やっぱり忘れてる」

その笑い方を見て、ようやく思い出した。

「美月?」

「十五年ぶり」

佐伯美月。

僕より一つ年上。

子供のころ、村へ来るたびに遊んでくれた人だった。

「久しぶり」

それ以上の言葉が出てこない。

美月も同じだったらしい。

僕たちは数秒、道路を挟んで向かい合っていた。

「おばあちゃんのこと、聞いた」

「ああ」

「今日がお通夜なんだよね」

「うん」

「そっか」

美月は視線を落とした。

「澄江さん、最後まで元気だったよ」

「そうなんだ」

「畑にも出てたし。この前まで普通に歩いてた」

僕は曖昧にうなずいた。

祖母がどんな生活をしていたのか、僕はほとんど知らない。

電話もしなかった。

手紙も書かなかった。

年賀状だけは毎年届いていたが、返したことはなかった。

だから今さら悲しむ資格があるのか、自分でも分からなかった。

「透」

美月が僕を見る。

「何?」

「……ううん」

何かを言いかけて、やめた。

「お通夜、私も行くから」

「ありがとう」

僕が歩き出そうとすると、美月がもう一度呼び止めた。

「透」

「ん?」

今度は少し声が低かった。

「夜、山には行かないほうがいいよ」

僕は思わず笑った。

「何それ」

しかし美月は笑わなかった。

「久しぶりだから。忘れてるかもしれないと思って」

「何を?」

美月は山を見る。

「この村のこと」

そう言って、美月は背を向けた。

僕はしばらくその場に立っていた。

十五年ぶりに会った幼なじみから言われる言葉としては、ずいぶん奇妙だった。

けれど、そのときの僕は深く考えなかった。

*

祖母の家は村の北側にある。

築何年なのかは知らない。

少なくとも母が子供のころには建っていたというから、五十年以上は経っている。

木造二階建て。

黒い瓦。

広い庭。

昔は庭の端に柿の木があった。

だが、今は切り株だけになっていた。

玄関を開ける。

「ただいま」

誰もいない家に、無意識にそう言っていた。

返事はない。

畳の匂いがした。

それだけで、十五年前の記憶が一気によみがえった。

廊下を走って祖母に怒られたこと。

縁側でスイカを食べたこと。

夜、蚊帳の中で眠ったこと。

そして――

青白い光。

僕はそこで記憶を止めた。

考えないようにしてきた。

十五年間ずっと。

居間には、祖母の遺影が置かれていた。

写真の中の祖母は笑っている。

僕の記憶よりずっと年を取っていた。

当然だ。

十五年も経っている。

「ばあちゃん」

声に出してみた。

返事はない。

僕は遺影の前に座った。

線香を一本立てる。

煙が細く上がっていく。

「久しぶり」

自分でもひどい挨拶だと思った。

十五年ぶりに帰ってきた孫が、死んだ祖母に言う言葉ではない。

「ごめん」

それだけ言った。

*

通夜は午後六時から始まった。

村の小さな寺だった。

参列者は思ったより多かった。

僕の知らない人ばかりだった。

けれど向こうは僕を知っているらしい。

「澄江さんのお孫さん?」

何度も聞かれた。

そのたびに頭を下げた。

「東京から?」

「はい」

「大変だったねえ」

「ありがとうございます」

同じ会話を繰り返す。

祖母は村では顔の広い人だったらしい。

「澄江さんには世話になった」

そう言う人が多かった。

僕の知らない祖母が、この村にはいた。

焼香を終え、寺の隅に立っていると、背後から声をかけられた。

「相沢透くんだね」

振り向く。

七十歳くらいの男だった。

痩せている。

白髪を後ろへ撫でつけ、黒い礼服を着ていた。

見覚えはない。

「はい」

「大きくなったな」

男は僕の顔をじっと見た。

「……どこかでお会いしましたか?」

「君が小さいころにね」

男は笑った。

「久世宗一郎だ」

その名前にも覚えはなかった。

「澄江さんとは昔からの知り合いでね」

「そうでしたか」

「残念だった」

久世は遺影を見る。

「最後まで、口の堅い人だった」

妙な言い方だった。

「口が堅い?」

僕が聞き返すと、久世は一瞬こちらを見た。

「ああ」

それから小さく笑った。

「昔の話だよ」

そのまま立ち去ろうとする。

僕はなぜか気になった。

「久世さん」

男が振り返る。

「祖母と、何かあったんですか?」

「何か?」

「今、口が堅いって」

久世は僕を見つめた。

数秒だったと思う。

だが妙に長く感じた。

「透くん」

「はい」

「君は、いつまで村にいる?」

「家を片付けるので、一週間くらいは」

「そうか」

久世はポケットから小さな紙を取り出した。

電話番号だった。

「何か見つけたら連絡してくれ」

「何かって?」

「澄江さんが残したものだ」

「何を探せばいいんですか?」

久世は答えなかった。

代わりに、

「特に日記だ」

と言った。

僕は眉をひそめる。

「日記?」

「昔から毎日つけていた」

知らなかった。

「そこに何が?」

久世は周囲を確認するように視線を動かした。

そして小さな声で言った。

「十五年前のことが書いてあるかもしれない」

心臓が一度、大きく鳴った。

十五年前。

その言葉だけで分かった。

「水瀬灯里のことですか?」

久世の表情が変わった。

ほんのわずかだった。

だが確かに。

「覚えていたか」

忘れるわけがない。

水瀬灯里。

十五年前。

高校二年生だった少女が、突然この村から消えた。

僕が蛍守村を訪れなくなった理由でもある。

「灯里さんは……結局、見つからなかったんですよね」

「ああ」

「どうして祖母の日記に?」

久世は答えない。

「久世さん?」

「今日はやめておこう」

「でも――」

「澄江さんの葬式だ」

そう言われれば、それ以上聞けなかった。

久世は僕の肩を軽く叩いた。

「日記を見つけたら、読むといい」

そして去っていった。

その背中を見送りながら、僕は手の中の紙を見る。

電話番号。

その下に小さな文字が書かれていた。

最初は電話番号の続きかと思った。

違った。

たった三文字。

闇螢。

*

通夜が終わったのは午後八時を過ぎてからだった。

祖母の家へ戻るころには、村は完全な闇に沈んでいた。

東京の夜とは違う。

街灯がほとんどない。

コンビニもない。

家々の明かりも少ない。

空には驚くほど多くの星が見えた。

僕はスマートフォンのライトをつけて歩いた。

子供のころは平気だった道なのに、今歩くと妙に怖い。

右側には田んぼ。

左側には山。

虫の声が絶え間なく聞こえる。

そのときだった。

――ふっ。

山の中で何かが光った。

僕は足を止めた。

青白い光。

ほんの一瞬。

「……蛍?」

八月下旬だ。

この辺りで見られる時期としては遅い。

そもそも山の斜面だ。

川辺でも田んぼでもない。

もう一度、光った。

今度は少し離れた場所。

ふっ。

消える。

数秒後。

ふっ。

また光る。

まるで誰かが山の奥へ向かって歩いているように。

僕はスマートフォンを向けた。

カメラを起動する。

ズームする。

何も映らない。

画面には真っ暗な山しかない。

「……何なんだよ」

呟いた瞬間だった。

背後から、

「見るな」

声がした。

心臓が跳ねる。

振り返る。

誰もいない。

道路が伸びているだけだった。

「誰かいるんですか?」

返事はない。

虫の声だけ。

気のせいだったのか。

僕はもう一度、山を見る。

光は消えていた。

そのとき、子供のころ祖母から聞いた言葉を思い出した。

ずっと忘れていた言葉だった。

――山で青い蛍を見ても、追いかけちゃいけないよ。

祖母はそう言っていた。

――あれは普通の蛍じゃないから。

幼い僕が尋ねた。

――じゃあ、何なの?

祖母は答えた。

――闇螢だよ。

そして、決まって最後にこう続けた。

――一つなら帰れる。

――二つなら振り返るな。

――三つなら目を閉じろ。

――四つ見たなら。

そこで祖母はいつも話をやめた。

「四つ見たら、どうなるの?」

何度聞いても教えてくれなかった。

ただ一度だけ。

十五年前。

水瀬灯里が消えた翌朝。

祖母は僕に言った。

――透。

あの日の祖母は、笑っていなかった。

――昨日、山で何か見た?

僕は首を横に振った。

祖母は安心したように息を吐いた。

そして僕の頭に手を置いた。

――それならいい。

僕は聞いた。

――ばあちゃんは見たの?

祖母は答えなかった。

だが、その夜。

僕は偶然、祖母と母の会話を聞いていた。

襖の向こう。

祖母は確かに言ったのだ。

――四ついた。

――昨日の夜、山に闇螢が四ついた。

翌日、僕は母に連れられて村を出た。

それ以来、一度も戻らなかった。

十五年。

忘れていた記憶だった。

いや。

違う。

忘れたふりをしていただけだ。

僕は山を見る。

何も光っていない。

「馬鹿馬鹿しい」

自分に言い聞かせ、歩き出した。

祖母の家までは、あと五分ほどだった。

その夜の僕は、まだ知らなかった。

祖母が十五年間、何を隠していたのか。

水瀬灯里がなぜ消えたのか。

そして――

僕がたった今見た青白い光が、

十五年前の夜にも、まったく同じ場所で光っていたことを。

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