圭介は、八桁の数字が書かれた紙を机に置いた。
58310426
おそらく、これが暗証番号だ。
ここまで来れば、金庫を開けることはできる。
だが、まだ開けない。
三日前の自分が仕掛けたもの。
それは金庫そのものではなかった。
暗証番号でもない。
「自分は記憶を失っている」という思い込み。
そこまでは分かった。
では、なぜそんなことをしたのか。
圭介はもう一度、これまでに見つけたものを机へ並べた。
金庫のレシート。
保証書。
説明書。
自筆の警告。
封筒。
黒い油性ペン。
そして八桁の数字が書かれた紙。
最後にノートを開く。
自分で書き出した事実が並んでいる。
圭介は、その中の一つを指でなぞった。
19:18 コンビニ 1,246円
まだ分かっていないことがあった。
三日前、コンビニで何を買ったのか。
黒い油性ペンだけなら、千二百四十六円にはならない。
ほかにも何か買っている。
「……まだ残ってる」
三日前の自分が残したものが。
圭介はキッチンへ向かった。
棚。
冷蔵庫。
引き出し。
もう一度、一つずつ調べる。
そして冷蔵庫の横に置かれた紙袋に目が止まった。
いつも買い物袋をまとめている場所だった。
中からコンビニの袋を取り出す。
底に、一枚のレシートが残っていた。
三日前。
19:18。
カードの利用履歴と一致する。
圭介は購入品を確認した。
弁当。
水。
黒い油性ペン。
単三電池。
そして――
SDカード。
「SDカード?」
圭介は顔を上げた。
買った記憶はない。
だが、用途にはすぐ心当たりがあった。
机の引き出しを開ける。
奥から小型のデジタルカメラを取り出した。
数年前に買ったものだ。
最近はスマートフォンばかり使っている。
電源を入れる。
SDカードが入っていた。
圭介は息を止めた。
取り出す。
コンビニで売られているものと同じ型だった。
圭介はSDカードをパソコンに差した。
保存されていたのは、
動画が一つだけ。
撮影日時は三日前。
午後十時三分。
金庫の暗証番号を設定した約十五分後だった。
再生する。
画面に映ったのは、この部屋だった。
そして数秒後、
三日前の圭介がカメラの前に座った。
現在の自分と同じ顔。
同じ部屋。
違うのは、
机の横に置かれた新品の金庫だけだった。
映像の中の圭介は、しばらく黙っていた。
それから口を開いた。
「ここまで来たなら、たぶん気づいてる」
現在の圭介は画面を見つめた。
「記憶は消えてない」
やはりそうだった。
「金庫を買ったことも、設定したことも、本当は覚えてる。少なくとも、思い出せる程度には残ってる」
映像の中の圭介は、そこで少し間を置いた。
「ただ、最初から思い出そうとはしないはずだ」
圭介の指が止まる。
「知らない金庫を見つけて、自分の字で『開けるな』と書いてあったら、たぶん最初にこう考える」
「自分の記憶に何か起きたんじゃないか、って」
そのとおりだった。
圭介は、朝からずっとそう思っていた。
映像は続いた。
「それを確かめたかった」
圭介は眉をひそめた。
何を。
映像の中の自分が答える。
「最近の俺は、自分の記憶を信用しすぎてる」
圭介は黙った。
「覚えているから正しい。覚えていないから起きていない。そう決めつけることが増えた」
映像の中の圭介は机の上の紙を一枚持ち上げた。
そこには大きく、
事実と記憶は違う
と書かれていた。
「だから試してみた」
「自分がどれだけ簡単に、自分の記憶から間違った結論を作るのか」
圭介は画面を見つめた。
ようやく意味が分かった。
三日前の自分は、
記憶を消したのではない。
暗証番号だけを意図的に覚えないようにし、
金庫については、
ただ思い出しにくい状況を作った。
そして未来の自分が、
「覚えていない」
という感覚だけを根拠に、
どんな結論を出すのか確かめようとした。
だが、一つ疑問が残る。
「なんで、そこまで……」
圭介が呟いた直後、
映像の中の自分が答えるように続けた。
「理由は、金庫の中に入ってる」
圭介は画面から金庫へ視線を移した。
「ただし、ここまで自分で気づく前に開けたら、この実験は失敗だ」
圭介は息を吐いた。
だから、
「絶対に金庫を開けるな」
だったのだ。
永久に開けてはいけないわけではない。
暗証番号を知られてはいけないわけでもない。
答えを見る前に、自分で答えへたどり着け。
あの警告は、そのためのものだった。
映像の中の圭介が最後に言った。
「ここまで分かったなら、開けていい」
動画はそこで終わった。
圭介は金庫の前に座った。
紙を開く。
58310426
テンキーへ指を伸ばす。
5。
8。
3。
1。
0。
4。
2。
6。
最後に「OPEN」を押した。
電子音。
小さく機械が動く音がした。
圭介は取っ手を握る。
そして、
ゆっくりと扉を開けた。
中には、
一冊のノートが入っていた。
それだけだった。
金もない。
貴重品もない。
危険なものもない。
圭介はノートを取り出した。
表紙には、自分の字で書かれている。
「間違って覚えていたこと」
圭介は最初のページを開いた。
そこには、日付と短い文章がいくつも並んでいた。
五月十二日
傘を会社に忘れたと思った。
実際は車の後部座席に置いていた。
五月二十六日
資料を机の上に置いたと確信していた。
実際は鞄の中だった。
六月九日
冷蔵庫に牛乳が残っていると思っていた。
なかった。
些細なことばかりだった。
圭介はページをめくる。
似た記録が続いている。
そして最後のページで手が止まった。
三日前の日付。
そこには一行だけ書かれていた。
「覚えている」は、証拠ではない。
圭介はしばらく、その文章を見つめた。
ようやく、すべてがつながった。
金庫は、
何かを守るためのものではなかった。
自分の思い込みを閉じ込めるためのものだった。
三日前の圭介は、自分が過去の出来事を何度も間違って記憶していることに気づいていた。
だが、
「気をつけよう」
と書くだけでは意味がないと思った。
未来の自分は、その注意書きさえ、
「自分には関係ない」
と考えるかもしれない。
だから実際に経験させることにした。
自分で金庫を買う。
自分で暗証番号を設定する。
番号は意図的に覚えない。
直接の記録は残さず、たどれば分かるようにする。
そして、
「絶対に金庫を開けるな」
という警告だけを目立つ形で残す。
未来の自分が何を考えるのか。
「誰かが入った」
「記憶がおかしい」
「何か恐ろしいものが入っている」
証拠がないまま、自分で物語を作り始める。
それこそ、
三日前の圭介が確認したかったことだった。
圭介はノートを閉じた。
少し拍子抜けしていた。
もっと重大なものが入っていると思っていた。
秘密。
過去。
誰にも知られてはいけない何か。
だが、
そんなものは何もなかった。
怖かったのは金庫ではない。
分からない部分を、自分の想像で埋めてしまうことだった。
圭介は、自筆の警告を手に取った。
絶対に金庫を開けるな。
朝に読んだときとは、まったく違って見えた。
あの文章には、
「永遠に」
とは書かれていない。
「中を見るな」
とも書かれていない。
ただ、
開けるな。
その理由を考える前に、
答えへ逃げるな。
そういう意味だったのだ。
圭介はノートを金庫へ戻そうとして、
やめた。
机の上に置く。
代わりに、警告のメモを金庫の中へ入れた。
扉を閉じる。
ロックはしなかった。
もう必要ないと思った。
圭介は自分のノートを開いた。
今日の日付を書く。
そして、その下に一行だけ記した。
「知らない」と「忘れた」は違う。
少し考えて、
もう一行加えた。
「覚えている」と「正しい」も違う。
ペンを置く。
机の横には、黒い金庫がある。
朝と同じ金庫。
何一つ変わっていない。
それでも圭介には、
まったく別のものに見えた。
自分だけが知らなかった暗証番号。
本当に知らなかったのは、
その八桁の数字ではなかった。
自分が、自分の記憶をどれほど簡単に信じてしまう人間なのか。
そのことだった。

