『いつも先に借りている人』水城澪を探す

短編ミステリー
『いつも先に借りている人』― 水城澪を探す

カタン。

図書館の奥から、本が床に落ちる音がした。

僕は顔を上げた。

「……誰かいるんですか?」

返事はない。

時計を見ると、午後五時十二分。

七月九日、木曜日。

閉館までまだ時間はある。

ほかの生徒がいてもおかしくはない。

それなのに、急に図書館全体が静かになったように感じた。

僕は机の上に広げていた貸出カードを本に戻し、音がした方向へ歩いた。

一番奥。

郷土資料の棚だった。

床に一冊の本が落ちている。

『私たちの町 写真で見る五十年』

さっきまで見ていた本とは違う。

僕はそれを拾った。

かなり古い写真集だった。

何となくページをめくる。

駅前。

商店街。

川。

昔の校舎。

そして後半には、この高校の写真も掲載されていた。

「こんな本あったんだ……」

元の場所へ戻そうとしたとき、いつもの癖で最後のページを開いた。

貸出カードが入っていた。

嫌な予感がした。

カードを引き抜く。

一番下。

二〇二六年七月七日 水城 澪

二日前。

「……まただ」

背中が冷たくなった。

僕はこの本を借りるつもりなどなかった。

タイトルすら知らなかった。

ただ、目の前で本が落ちた。

だから拾った。

それなのに――

水城澪は、二日前にこの本を借りている。

偶然という言葉が、急に頼りなく感じられた。


翌日、七月十日。

僕は昼休みに図書室へ行かなかった。

試してみたくなったのだ。

これまで僕が借りた本には、すべて水城澪の名前があった。

ならば、自分でも予想できない方法で本を選んだらどうなるのか。

放課後、僕は図書館へ向かった。

入り口で立ち止まり、スマートフォンの乱数アプリを使う。

まず、本棚の列。

次に段。

最後に左から何冊目か。

数字だけで一冊を決めた。

自分の好みは一切関係ない。

選ばれたのは、

『日本の野鳥観察』

だった。

鳥には特に興味がない。

これなら偶然でもない限り、水城澪が先に借りているはずはない。

僕は本を開いた。

最後のページ。

カードを引き抜く。

一番下に名前があった。

二〇二六年七月九日 水城 澪

「……嘘だろ」

昨日。

僕がこの本を選ぶと決めたのは、ほんの数分前だ。

なのに水城澪は昨日、すでに借りている。

僕は周囲を見回した。

誰かが自分を見ているような気がした。

だが、図書館にいるのは数人の生徒と、カウンターの司書だけだった。

そこで初めて、ある可能性が頭に浮かんだ。

水城澪は僕と趣味が同じなのではない。

僕が次に借りる本を知っている。

そんなはずはない。

そう思いながらも、ほかの説明が見つからなかった。


僕はそのまま、水城澪について調べることにした。

まず確認したのは卒業アルバムだった。

図書館の郷土資料コーナーには、過去の卒業アルバムが保管されている。

司書の先生が言っていた。

十年以上前、この学校に水城澪という生徒がいた。

なら、アルバムに載っている可能性がある。

僕は二〇一二年度の卒業アルバムを開いた。

三年一組。

いない。

三年二組。

いない。

三年三組。

ページをめくる指が止まった。

水城 澪

確かにいた。

肩まで伸びた黒髪。

少しだけ緊張したような笑顔。

写真の下には、はっきり名前が印刷されている。

水城澪。

二〇一二年度の三年生。

卒業したのは、二〇一三年三月。

今から十三年前だ。

幽霊なんて信じていない。

それでも、十三年前に卒業した人物の名前が、昨日の日付で貸出カードに書かれている。

その事実は、十分すぎるほど気味が悪かった。

さらにアルバムをめくる。

文化祭。

体育祭。

修学旅行。

そして図書委員会の集合写真。

そこにも水城澪がいた。

前列の端。

胸に「図書委員」と書かれた札をつけている。

その隣に、一人の女子生徒が座っていた。

高瀬琴音。

水城と肩が触れるほど近く、二人とも笑っている。

僕はその名前を覚えておくことにした。


土日を挟んだ。

七月十三日、月曜日。

昼休みになると、僕は司書の先生に卒業アルバムを見せた。

「この人ですよね?」

水城澪の写真を指さす。

先生は写真を見た。

「……そうね」

「先生、この人のこと知ってるんですか?」

「昔の卒業生だから、名前を見たことがあるだけよ」

「でも、この前すぐ反応しましたよね」

先生は答えなかった。

僕は続けた。

「水城澪は図書委員だったみたいです」

「そう」

「高瀬琴音っていう人と一緒に写ってます」

その名前を口にした瞬間だった。

先生の指が止まった。

ほんのわずか。

けれど、今度も見逃さなかった。

「高瀬さんを知ってるんですか?」

「知らないわ」

答えが早すぎた。

「本当に?」

先生は僕を見た。

「昔のことを調べて、何がしたいの?」

いつもの穏やかな声とは少し違っていた。

「最近の貸出カードに、十三年前に卒業した人の名前が書いてあるんですよ。気になるのは普通じゃないですか」

「誰かのいたずらかもしれないでしょう」

「だったら、どうして僕が借りる本ばかりなんですか?」

先生は黙った。

「金曜日なんて、適当に選んだ本にもありました」

「適当に?」

「数字で棚と本を決めたんです。それでも水城澪の名前があった」

初めて、先生の表情が変わった。

驚いたように見えた。

「……そんな選び方をしたの?」

「はい」

先生は何かを考えていた。

そして小さく言った。

「そう……」

妙な反応だった。

僕はその意味を尋ねようとした。

しかし先生は、

「授業、始まるんじゃない?」

と言って話を終わらせた。


その日の放課後。

僕は図書館へ戻った。

今度の目的は本ではない。

過去の記録だった。

水城澪と高瀬琴音。

二人に何があったのか。

古い学校新聞を調べる。

二〇一二年。

四月。

五月。

六月。

夏休み。

文化祭。

体育祭。

二人が三年生だった年の記事を順番に追っていく。

そして、十一月号で手が止まった。

学校新聞の片隅。

小さな記事。

『三年生女子生徒一名が家庭の事情により退学』

名前は書かれていない。

時期は、

二〇一二年十一月。

僕は卒業生名簿を確認した。

水城澪の名前はある。

だが――

高瀬琴音の名前がない。

「……卒業してない?」

卒業アルバムには写真が載っている。

おそらく写真は、退学する以前に撮影されたものなのだろう。

もちろん、退学した生徒が高瀬琴音だったという証拠はない。

だが、僕にはそう思えた。

水城澪と同じ三年生。

水城と仲の良かった生徒。

そして卒業まであと数か月という時期に、突然学校を去った可能性がある人物。

貸出カード。

図書館。

古い本。

何かがつながり始めている気がした。


僕は最初に借りた推理小説をもう一度手に取った。

現在の記録。

二〇二六年六月十二日 水城 澪。

そして古い記録。

二〇一二年十一月二日 水城 澪。

約十四年前。

高瀬琴音と思われる生徒が退学したのも、同じ二〇一二年十一月だ。

偶然だろうか。

何気なくページをめくる。

すると、十七ページの角に小さな折り目があることに気づいた。

古い本なら珍しくない。

だが妙にきれいな折り目だった。

僕は十七ページを開いた。

特に変わったことはない。

次に天文学の本を調べた。

四十二ページ。

そこに、薄い鉛筆の点があった。

郷土史。

八ページ。

写真集。

三十一ページ。

それぞれ違う形だった。

折り目。

鉛筆の点。

小さな傷。

一冊だけなら汚れだと思っただろう。

だが、六冊すべてに一か所ずつ、不自然な印がある。

僕はノートに数字を書いた。

17 42 8 31 ……

「これ、もしかして……」

数字そのものが暗号なのではない。

ページを指定しているのではないか。

僕は十七ページを開き直した。

文章の中に、一文字だけ薄く丸がつけられていた。

「キ」

天文学の四十二ページ。

「ュ」

郷土史の八ページ。

「ウ」

僕の心臓が速くなった。

写真集。

「コ」

残りの本も調べる。

文字を順番にノートへ書き写した。

すべて並べたとき、そこには一つの言葉ができていた。

キュウコウシャ

旧校舎。

僕は顔を上げた。

窓の向こうに、その建物が見える。

現在の校舎の裏に残された、三階建ての古い校舎。

老朽化のため、数年前から立入禁止になっている。

「旧校舎……?」

しかし、これだけでは場所が広すぎる。

まだ本が足りないのではないか。

そのとき思い出した。

木曜日、棚から落ちた本。

『私たちの町 写真で見る五十年』

あれにも水城澪の名前があった。

僕は急いで棚へ向かった。

本を取り出す。

ページをめくる。

二十四ページ。

学校の古い航空写真。

そこに小さな点がある。

文字を探す。

「サ」

さらに、金曜日に乱数で選んだ野鳥の本。

そこからも一文字見つかった。

「ン」

僕はノートを見る。

キュウコウシャ サン

旧校舎、三。

三階。

おそらくそういう意味だ。

なら、まだ続きがある。

僕は次の本を探そうと立ち上がった。

その瞬間だった。

机の端に、一冊の本が置かれていることに気づいた。

さっきまでなかった。

タイトルは、

『学校資料集 創立八十周年記念』

だった。

僕は周囲を見る。

誰もいない。

カウンターにも司書の先生はいなかった。

恐る恐る本を開く。

貸出カードを抜いた。

一番下。

二〇二六年七月十三日 水城 澪

今日の日付だった。

そして、その横に小さな文字で数字が書かれていた。

3・18

僕は三ページを開いた。

何もない。

三十八ページでもない。

少し考え、

三章、十八ページ。

そこを開いた。

ページ中央の文章に、一文字だけ丸がある。

「カ」

その瞬間、背後から声がした。

「もう、そのくらいにしたほうがいいんじゃない?」

振り返る。

司書の先生が立っていた。

いつからそこにいたのか分からない。

先生は僕ではなく、机の上に並んだ本を見ていた。

そして、静かに言った。

「旧校舎には行かないで」

「どうしてですか?」

「危ないから」

「それだけですか?」

先生は答えなかった。

僕はノートを閉じた。

旧校舎。

三階。

そして次の文字は――カ。

まだ暗号は完成していない。

けれど、一つだけ確信した。

水城澪という名前も。

僕が借りてきた本も。

本に残された印も。

すべて偶然ではない。

そして司書の先生は、

この暗号が何を意味しているのか知っている。

タイトルとURLをコピーしました