最初に気づいたのは、時計だった。
朝六時四十分。
目覚ましの音で目を覚ました高瀬修一は、ベッドから起き上がった。
修一が暮らしているのは、築十五年のマンションだった。
間取りは1LDK。
玄関から短い廊下を進むとリビングがあり、その奥に寝室がある。
寝室は六畳ほどの長方形だった。
家具の配置は単純だった。
部屋の奥、南側の壁に窓がある。
窓には灰色のカーテン。
窓の左側には机があり、その上の壁には丸い時計が掛けられている。
反対側の壁にはベッド。
本棚とテレビは、ベッドの足元側に置かれている。
そして寝室の入口脇――北側の壁には、縦長の姿見が立て掛けてあった。
姿見は窓のある南側の壁と、ほぼ正面から向かい合っている。
そのため、鏡の前に立つと、修一の肩越しに、
窓。
カーテン。
机。
机の上。
壁の時計。
そしてベッドの一部までが映る。
修一は三年前にこの部屋へ引っ越してきてから、家具の位置をほとんど変えていない。
鏡も同じだった。
床には滑り止めを敷き、壁に固定してある。
角度が勝手に変わることもない。
毎朝、修一はその姿見の前で身だしなみを整えてから仕事へ行く。
だから鏡に映る部屋の景色も、見慣れていた。
その朝も、寝癖を直しながら何気なく鏡の奥を見た。
「……ん?」
何かがおかしい。
すぐには分からなかった。
修一は鏡の中を眺めた。
窓。
カーテン。
机。
時計。
そこで気づいた。
時計だ。
もちろん、鏡の中では部屋が左右反転して見える。
そんなことは分かっている。
そうではない。
いつも鏡の中に映っている位置より、時計が数センチだけ中央へ寄っている。
そんな気がした。
修一は振り返った。
実物の時計を見る。
いつもの場所だった。
壁には小さな釘が一本あり、そこに時計が掛けられている。
釘が動いた形跡もない。
修一はもう一度、姿見の正面に立った。
時計を見る。
「……やっぱり、少し違うような」
だが、どこがどう違うのか説明しろと言われれば、自信はなかった。
数センチ程度の違和感だ。
「気のせいか」
修一はそう呟き、会社へ向かった。
その日の夜には、時計のことなどすっかり忘れていた。
翌朝。
修一はいつもの場所に立った。
鏡を見る。
今度は時計ではなかった。
「カーテン……?」
昨夜、右側のカーテンを十五センチほど開けたまま眠った。
修一は振り返った。
確かに開いている。
窓の右端から朝の光が細く差し込んでいる。
鏡へ視線を戻す。
左右が逆に映るのは当然だ。
だが、それを考慮してもおかしい。
隙間の幅そのものが狭い。
実物では十五センチほど。
鏡の中では十センチもないように見える。
修一は鏡の前から動かず、肩越しに実物を見る。
十五センチ。
鏡を見る。
狭い。
もう一度振り返る。
変わっていない。
そして鏡へ向き直った。
「あれ……?」
今度は同じだった。
鏡の中のカーテンも、実物と同じ幅だけ開いている。
修一は眉をひそめた。
「疲れてるな……」
最近、仕事が忙しかった。
寝不足も続いている。
そのせいだろう。
そう考えることにした。
三日目。
違和感は、もっとはっきりしていた。
昨夜、修一は机で推理小説を読んでいた。
眠くなり、本を閉じる。
そして机の端と平行になるように置いて、そのままベッドへ入った。
翌朝。
姿見の前に立った修一は、すぐに異変に気づいた。
本が斜めになっている。
鏡の中だけで。
修一は振り返った。
実物の本は、机の端と平行だった。
「……」
鏡を見る。
平行になっている。
修一は動きを止めた。
さっきまで斜めだった。
間違いない。
それなのに、一度振り返っただけで元に戻った。
四日目。
時計。
五日目。
カーテン。
六日目。
本。
修一はようやく、共通点に気づいた。
異変が起こるのは、いつも朝、最初に姿見を見たときだけだった。
しかも、一度実物を振り返って確認すると消えてしまう。
時計なら、位置が戻る。
カーテンなら、開き方が戻る。
本なら、角度が戻る。
現実の物は何も動いていない。
変わっているのは、鏡に映った像だけだった。
「俺がおかしいのか……?」
疲労。
寝不足。
思い込み。
あるいは、鏡を見る位置が毎日微妙に違っているだけなのかもしれない。
そこで六日目の夜。
修一は実験することにした。
まず、部屋の写真を撮った。
時計。
カーテン。
机。
本。
それぞれの位置が分かるようにする。
次に、姿見の正面の床へテープを貼った。
明日の朝は、必ずそこに立つ。
これなら見る位置による違いもなくなる。
姿見そのものも確認した。
壁との距離。
床との接地点。
固定金具。
異常はない。
最後に、スマートフォンを姿見の横にある小さな棚へ置いた。
明日の朝。
違和感を覚えた瞬間に撮影する。
翌朝六時四十分。
目覚ましが鳴った。
修一はベッドから起きた。
姿見の前へ行く。
床に貼ったテープへ両足を合わせる。
昨夜と同じ位置。
同じ角度。
そして鏡を見る。
「……!」
机の上の本が斜めになっていた。
昨夜は確実に平行に置いた。
修一は振り返らなかった。
鏡から目を離さない。
右手だけを伸ばし、棚に置いてあるスマートフォンを取る。
カメラを起動。
姿見へ向ける。
カシャ。
撮った。
それから初めて振り返った。
机を見る。
本は平行だ。
昨夜置いた場所から動いていない。
すぐに鏡へ向き直る。
鏡の中でも――
平行に戻っている。
修一はスマートフォンの写真を開いた。
息を止めた。
写真には姿見が写っている。
その中の机。
そして――
本だけが斜めになっていた。
「……本当に違う」
錯覚ではない。
見間違いでもない。
写真に残っている。
修一は昨夜撮影した部屋の写真を表示した。
実際の部屋と鏡像では左右が逆になる。
それを考慮しながら、一つずつ比較する。
本。
時計。
カーテン。
「待てよ……」
違うのは本だけではなかった。
時計も、本来鏡に映るはずの位置より数センチ中央へ寄っている。
カーテンの隙間も、わずかに狭い。
修一は紙を取り出した。
昨夜撮った部屋の写真と、今朝撮った鏡の写真。
二つを見比べながら、位置の違いを書き込んでいく。
時計は中央へ。
カーテンの端も中央へ。
斜めになった本の一端も中央へ。
「全部……同じ方向だ」
三つの物は、無関係に変化しているわけではなかった。
少しずつ。
鏡の中のある一点へ近づいている。
修一は写真の上で、それぞれの移動方向を指で延長した。
時計から一本。
カーテンから一本。
本から一本。
三本の線が交わる。
そこは――
ベッド脇の白い壁だった。
修一は顔を上げた。
実物の壁を見る。
何もない。
白い壁。
姿見を見る。
当然、同じ壁が映っている。
何もない。
「……何なんだよ」
修一は鏡へ近づいた。
その瞬間だった。
鏡の中。
三本の線が交わるはずの場所に――
小さな黒い点が浮かんだ。
修一は反射的に振り返った。
現実の壁には、
何もなかった。
