翌朝。
私はいつもより三十分早く図書館へ着いた。
昨夜から、ずっと同じことを考えていた。
青は、本当に嘘の色なのか。
二十年以上、疑ったことのなかった感覚だった。
けれど水野さんは、問題の本に触れていない。
少なくとも、防犯カメラを見る限りでは。
それなのに、彼女の声は青かった。
どちらかが間違っている。
防犯カメラか。
水野さんか。
それとも――私か。
職員用の入口から中へ入る。
まだ館内は静かだった。
私はパソコンを起動し、昨日の防犯映像をもう一度開いた。
確認したいことがあった。
水野さんではない。
高瀬さんだ。
午後三時十二分。
映像の中で、高瀬さんが『わたしたちの町 二十年の記録』を抱えてカウンター裏へ入る。
机そのものは柱に隠れて見えない。
数秒後、高瀬さんが戻ってくる。
私は映像を止めた。
昨日は「高瀬さんが本を置いた場面」として見ていた。
だが、正確には違う。
カメラに映っているのは、
高瀬さんが本を持って死角へ入り、そのあと手ぶらで戻ってきたこと。
それだけだ。
机に本を置いた瞬間は、誰も見ていない。
私は映像を進めた。
午後三時二十六分。
高瀬さんが再びカウンター裏へ入る。
今度は何も持っていない。
一分ほどして戻ってくる。
午後四時五分。
私自身が死角へ入っている。
返却された資料を一時的に置くためだった。
もちろん、そのとき問題の本を見た記憶はない。
だが――。
私は眉を寄せた。
昨日、高瀬さんは言った。
「午後三時十二分ごろに机へ置いて、その後は触っていません」
では、三時二十六分に何をしていた?
映像をもう一度見る。
やはり高瀬さんだった。
私は時刻をメモした。
15:26 高瀬さん、再び死角へ。
そのとき。
「早いですね」
背後から声がした。
振り返る。
高瀬さんだった。
「おはようございます」
「おはようございます。昨日の本ですか?」
「はい。ちょっと気になることがあって」
私は画面を指した。
「昨日、三時二十六分にもカウンター裏へ行ってますよね」
「ああ」
高瀬さんは画面をのぞき込んだ。
「これですか」
「何をしてたか覚えてます?」
少し考えてから、高瀬さんは答えた。
「たぶん、電話のメモを取りに行ったんだと思います」
その瞬間。
薄い緑。
青ではない。
「電話のメモ?」
「問い合わせを受けたとき、相手の名前と電話番号を書いたんです。机に置いたままだったので」
「そのとき、本には?」
「触ってません」
薄い緑。
私は無意識に息を吐いた。
やはり青くない。
なら本当なのか。
そう考えた直後、自分で自分の考えに気づいた。
また色だけで判断している。
「そのメモ、残っていますか?」
「あると思いますよ」
高瀬さんは机の引き出しを探した。
やがて、小さなメモ用紙を一枚取り出した。
昨日の日付。
午後二時五十六分。
その下に電話番号が書かれている。
しかし――。
「名前がないですね」
「そうなんです」
高瀬さんが言った。
「聞いたんですけど、名乗らなかったんですよ」
「男性ですか? 女性ですか?」
「女性でした」
私はメモを見つめた。
「何歳くらい?」
「声だけなので何とも。若い感じではありましたけど」
電話番号は携帯電話のものだった。
私は番号を見た。
当然、見覚えはない。
「折り返してみます?」
「昨日、一度かけたんです」
「出ました?」
「いいえ」
高瀬さんは首を振った。
「現在使われていない番号だって」
「え?」
私はもう一度メモを見る。
電話を受けた直後に書いた番号だという。
それなのに、使われていない。
「聞き間違えたのかもしれません」
高瀬さんは苦笑した。
薄い緑。
私は何も言わなかった。
開館時間になると、いつもの図書館に戻った。
新聞を読む人。
絵本を選ぶ親子。
パソコンで調べ物をする学生。
昨日、本が一冊消えたことなど誰も知らない。
午前十時過ぎ。
水野さんが出勤した。
「おはようございます」
薄い黄色。
いつもの色だった。
「おはよう」
私はできるだけ普通に返した。
水野さんはカウンターへ入り、返却された本の処理を始めた。
私はしばらく彼女を見ていた。
昨日の青。
あれが気のせいだったとは思えない。
だったら、もう一度確かめればいい。
私は返却台から一冊の本を取った。
「水野さん」
「はい?」
「これ、昨日返却された本だっけ?」
水野さんは表紙を見る。
「違いますよ。今朝の返却箱に入ってました」
薄い黄色。
私は貸出記録を確認した。
水野さんの言うとおりだった。
次に別の本を取る。
「これは?」
「昨日です」
黄色。
記録を見る。
正しい。
私はさらに質問した。
「昨日、閉館後にコンビニ寄った?」
「いいえ。まっすぐ帰りました」
黄色。
これは確認できない。
けれど青ではない。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもない」
「変ですよ、今日」
水野さんが笑う。
黄色。
私は自分でも馬鹿なことをしていると思った。
これでは実験にもならない。
嘘をついてくれと頼むわけにもいかない。
そのとき、水野さんが返却本を一冊持ち上げた。
「そういえば、昨日の本、見つかったんですか?」
「まだ」
「そうですか」
黄色。
私は彼女を見た。
「タイムカプセルの名簿もなくなったみたい」
水野さんの手が止まった。
ほんの一瞬。
「……そうなんですか」
青。
間違いなかった。
昨日と同じ色。
私は続けた。
「二十年前の参加者が載ってるらしいよ」
「へえ」
青。
「水野さん、そのころこの町に住んでた?」
「住んでましたよ」
青。
私は息を止めた。
「五歳くらい?」
「そうですね」
青。
「イベントに参加した?」
一瞬の沈黙。
「覚えてません」
青。
私は確信した。
水野さんは、タイムカプセルについて何か隠している。
だが――。
「水野さん」
「はい?」
「昨日、あの本に触った?」
「触ってません」
青。
やはり同じだった。
その言葉だけを取り出せば、防犯映像と矛盾する。
だが、タイムカプセルの話題でも青になる。
つまり青が反応しているのは、質問への答えそのものではないのかもしれない。
タイムカプセルについて考えること自体が、水野さんの声を変えている。
そんな可能性が浮かんだ。
昼休み。
私は二階の郷土資料コーナーへ向かった。
『わたしたちの町 二十年の記録』が置かれていた棚には、一冊分の隙間が残っている。
周囲には、同じころに発行された市の記念誌が並んでいた。
私は隣の資料を一冊抜いた。
『市制記念事業報告書』
ページをめくる。
式典。
記念植樹。
市民祭。
そして、
「二十年後の私へ――タイムカプセル事業」
という見出しがあった。
参加者数、百八十七名。
開催場所、市民文化広場。
対象、市内在住者。
年齢制限なし。
私はページをめくった。
集合写真が載っている。
大人。
中学生。
小学生。
幼い子ども。
その下に小さく、
「参加者名簿は別紙資料として保存」
と書かれていた。
別紙資料。
私は昨日の話を思い出した。
高瀬さんは、問題の本に挟まれていた名簿を、
「正式な資料じゃない。昔、誰かがコピーしたものだと思う」
と言っていた。
では、原本はどこにある?
私は資料の保存一覧を調べた。
タイムカプセル関連。
企画書。
会場図。
当日の写真。
参加者アンケート。
参加者名簿。
あった。
ただし、その横には、
保存場所――市役所文化振興課
と記載されていた。
図書館ではない。
つまり、なくなった名簿は原本ではない。
誰かが市役所にある名簿をコピーし、それを本に挟んだ。
誰が。
いつ。
何のために。
午後。
私は市役所の文化振興課へ電話をかけた。
図書館の職員であることを伝え、二十年前のタイムカプセル事業について確認する。
電話に出た職員はしばらく調べてから答えた。
「資料は残っています」
「参加者名簿もですか?」
「はい。ただ、個人情報が含まれていますので、現在は一般公開していません」
「昔は閲覧できたんでしょうか」
「少々お待ちください」
保留音。
しばらくして職員が戻ってきた。
「以前は図書館から照会を受けた記録があります」
私は思わず姿勢を正した。
「いつですか?」
「かなり前ですね。十八年前です」
十八年前。
タイムカプセル企画の二年後。
「誰が照会したか分かりますか?」
「担当者名までは残っています」
職員が名前を読み上げた。
私はメモを取った。
知らない名前だった。
吉岡恵美。
「図書館の職員ですか?」
「そこまでは、こちらでは分かりません」
電話を切ったあと、私は職員記録を調べた。
吉岡恵美。
十八年前、この図書館で働いていた司書だった。
そして十六年前に退職している。
私はさらに古い引き継ぎ記録を探した。
その中に、一行だけ記載があった。
市制記念資料――参加者名簿コピー一部、郷土資料へ添付。
これで、名簿が本に挟まれていた理由は分かった。
少なくとも十八年前から、コピーは図書館にあった。
問題はその中身だ。
夕方。
閉館前の館内を歩いていると、水野さんが郷土資料の棚の前に立っていた。
何かを探している。
「何探してるの?」
声をかけると、水野さんは肩を震わせた。
「びっくりした」
黄色。
「昨日の本?」
私は尋ねた。
一瞬。
「違います」
青。
私は足を止めた。
「じゃあ何?」
「別の資料です」
青。
今度こそ、明らかだった。
水野さんは何かを隠している。
けれど、それが本を盗んだという意味ではない。
私は棚を見る。
「タイムカプセルの資料?」
水野さんは答えなかった。
沈黙にも色があればいいのに、と初めて思った。
やがて彼女が小さく言った。
「どうして、そんなに気にするんですか」
薄い青。
怒っているようには聞こえない。
むしろ、怯えているようだった。
「本がなくなったから」
「ただの古い本ですよね」
青。
「名簿が入ってた」
水野さんの指がわずかに動いた。
「……それが何なんですか」
青。
私は彼女を見つめた。
「水野さん」
返事はない。
「あなた、あの名簿に名前が載ってるんじゃない?」
長い沈黙。
そして、
「載ってません」
鮮やかな青。
これまで聞いた中で、最も濃い青だった。
私は息を止めた。
やはり。
そう思った。
その瞬間だった。
水野さんが、静かに続けた。
「水野真帆という名前は、載ってません」
私は眉をひそめた。
妙な言い方だった。
「どういう意味?」
「そのままです」
青。
それ以上、水野さんは何も言わなかった。
閉館後。
私は古い新聞のデータベースを調べた。
二十年前。
市制記念タイムカプセル。
検索結果の中に、地方紙の記事が一件あった。
写真付きの記事だった。
「未来の自分へ――百八十七人が手紙」
私は画像を拡大した。
大勢の参加者。
中央には市長。
その周囲に家族連れ。
写真の端に、小さな女の子がいた。
顔だけなら、水野さんに似ている気もする。
だが二十年前の写真だ。
断定はできない。
記事本文を読む。
参加した家族の名前が何組か紹介されていた。
その中で、私は一つの名字に目を止めた。
藤崎。
藤崎夫妻と、五歳の娘。
娘の名前は――
真帆。
私は画面を見つめた。
水野真帆。
二十五歳。
二十年前、五歳。
名前も一致する。
偶然かもしれない。
名字が違うだけなら、結婚や養子縁組、家庭の事情など理由はいくらでもある。
それ自体は何の謎でもない。
しかし、水野さんは言った。
「水野真帆という名前は、載ってません」
確かにそうだ。
もし彼女が当時、
藤崎真帆
だったのなら。
水野さんは嘘をついていない。
少なくとも、言葉の上では。
それなのに、あのときも声は青かった。
私は椅子から立ち上がった。
胸の奥で、何かが崩れ始めていた。
水野さんは「嘘をついているから青い」のではない。
別の理由で声が変化している。
では、何が青を生み出している?
私は記事を印刷しようとして、ふと画面の端に目を止めた。
写真の説明文。
そこには参加者について、もう一つ記載があった。
「タイムカプセルは二十年後、市制記念日に開封予定」
私は今年のカレンダーを開いた。
日付を確認する。
市制記念日まで――
あと七日。
その瞬間、昨日の電話が頭に浮かんだ。
名乗らなかった女性。
使われていない電話番号。
そして質問。
「参加者全員の名前が分かりますか」
誰かが、二十年前の名簿を探している。
そして七日後には、タイムカプセルが開けられる。
本が消えたことよりも。
名簿がなくなったことよりも。
本当の問題は、その先にあるのかもしれない。
私はもう一度、新聞記事の写真を見た。
五歳の真帆。
その隣には、母親らしい女性が立っている。
そして二人の手には、それぞれ白い封筒が握られていた。
二十年前、彼女たちは未来へ何を書いたのか。
私はまだ知らなかった。
そして――
誰かが、それを開けられたくないと思っていることも。

