六月十六日、火曜日。
昼休みになると、僕はいつものように図書館へ向かった。
校舎の西端にある図書館は、昼休みでもそれほど混まない。
友達と話すのが嫌いなわけではない。
ただ、四十分しかない昼休みを教室の騒がしさの中で過ごすより、本棚の間を歩いているほうが落ち着く。
特に理由もなく背表紙を眺め、気になったタイトルがあれば手に取る。
僕にとって本を選ぶ時間は、本を読む時間と同じくらい好きだった。
この学校の図書館には、少し変わったところがある。
貸し出しそのものはバーコードで管理されているのだが、古い本の多くには、今でも紙の貸出カードが残されている。
本の最後のページに貼られた小さな袋。
その中に、細長い紙のカードが入っている。
昔はそこに日付と名前を書いて、本を借りていたらしい。
今では使われていない。
けれどカード自体は抜かれず、そのまま残されている本が多かった。
誰が、いつ、この本を読んだのか。
そんな記録を見るのが、僕は密かに好きだった。
その日、僕が選んだのは一冊の古い推理小説だった。
表紙の角が擦れ、ページも少し黄ばんでいる。
最後に借りられたのはいつだろう。
何となく気になって、僕は貸出カードを引き抜いた。
そこには何人もの名前が並んでいた。
ほとんどが十年以上前の日付だった。
ところが、一番下だけ違っていた。
六月十二日 水城 澪
四日前だ。
「最近、借りた人がいるんだ」
思わず呟いた。
少し意外だった。
かなり古い小説だったからだ。
もっとも、同じ本を読む生徒がいても不思議ではない。
僕はカードを戻し、その本を借りた。
そのときは、それだけだった。
三日後。
僕は放課後、再び図書館にいた。
その日は小説ではなく、天文学の棚を見ていた。
夏休みに星を見に行く予定があるわけでもない。
ただ、窓際の展示台に置かれていた「夜空を見上げてみませんか」という小さな紹介カードが目に入り、何となく興味を持っただけだった。
『夏の星座と夜空』
二十年ほど前に出版された本だった。
パラパラとページをめくる。
星座の写真がきれいだったので借りることにした。
そして、いつもの癖で貸出カードを見る。
僕の指が止まった。
六月十五日 水城 澪
「……また?」
三日前。
前回とはまったく違うジャンルの本だ。
推理小説と天文学。
珍しい名前だったこともあり、僕は覚えていた。
とはいえ、本好きならいろいろなジャンルを読むこともある。
偶然だろう。
そう思って、その日は帰った。
さらに一週間後。
今度は郷土史の本だった。
授業で地元の古い建物について調べることになり、資料を探していた。
何冊か棚から取り出し、一番写真の多い本を選んだ。
貸出カードを確認する。
六月二十二日 水城 澪
まただ。
僕はしばらく、その名前を見つめていた。
三冊。
さすがに少し気になった。
しかも、どれも僕が借りる数日前に借りられている。
「趣味が似てるのかな」
そう考えると、少し面白かった。
顔も知らない誰かが、自分と同じ本を選んでいる。
いつか図書館ですれ違っているのかもしれない。
僕はその程度に考えていた。
けれど、その偶然は終わらなかった。
七月に入った。
詩集。
水城 澪
古い海外の写真集。
水城 澪
植物図鑑。
水城 澪
僕が借りた本には、必ずその名前があった。
しかも決まって、僕が借りる数日前の日付で。
気味が悪いというより、最初は好奇心のほうが強かった。
どんな人なのだろう。
一年生だろうか。
三年生だろうか。
もしかすると同じ二年生かもしれない。
そこで僕はクラスメイトに聞いてみた。
「水城澪って知ってる?」
「誰?」
「この学校の生徒だと思うんだけど」
「知らないな」
別の友達にも聞いた。
やはり知らなかった。
珍しい名字だから、知っている人がいればすぐに分かると思ったのだが、誰も心当たりがない。
僕は少しずつ気になり始めた。
そして七月九日の昼休み。
僕は図書館のカウンターへ向かった。
司書の先生は、返却された本を整理していた。
四十代くらいの女性で、いつも静かに話す人だ。
「あの、ちょっと聞いてもいいですか?」
「どうしたの?」
「水城澪っていう生徒、知っていますか?」
先生の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、僕には分かった。
明らかに反応した。
「……水城?」
「はい。澪って書きます」
先生は僕の顔を見た。
「どうして、その名前を?」
僕は借りていた写真集をカウンターに置き、貸出カードを抜いた。
「最近、僕が借りる本に、いつもこの人の名前があるんです」
先生はカードを受け取った。
水城澪。
その文字を見たまま、しばらく黙っていた。
「先生?」
「ああ……ごめんなさい」
先生はカードを僕へ返した。
そして、少し困ったように笑った。
「水城澪という生徒は、今、この学校にはいないと思うわ」
「転校したんですか?」
「そういう意味じゃなくて」
先生は一度言葉を切った。
「昔、この学校にいた生徒に、そんな名前の子がいた気がするの」
「昔?」
「ええ。かなり前」
「何年前ですか?」
先生は少し考えてから答えた。
「十年以上前だったと思う」
僕は笑いそうになった。
「いや、それは別人ですよ」
「どうして?」
「だって、これ」
僕は貸出カードの一番下を指さした。
そこには、はっきりと書かれている。
七月六日 水城 澪
三日前の日付だった。
先生の表情から笑みが消えた。
僕も、そこで初めて気づいた。
もし先生の記憶が正しいのなら――。
十年以上前にこの学校にいた人間が、
三日前、この図書館で本を借りている。
その日の放課後。
僕はもう一度、一人で図書館へ行った。
確かめたいことがあった。
これまで僕が借りた本を、一冊ずつ棚から探した。
推理小説。
天文学。
郷土史。
詩集。
写真集。
植物図鑑。
すべての貸出カードを机の上に並べる。
そして、水城澪の名前だけを見比べた。
そのとき、もう一つの奇妙な共通点に気づいた。
筆跡だった。
六冊すべて、同じ字。
それだけではない。
日付はすべて最近なのに、水城澪の名前だけが、なぜか古い記録と同じ書き方で記されていた。
僕は最初の推理小説のカードをもう一度見る。
そして、何気なく一つ上の記録に目をやった。
そこにもあった。
二〇一二年十一月二日 水城 澪
僕は息を止めた。
同じ本の貸出カードに、
十四年前の「水城澪」と、
四日前の「水城澪」がある。
二つの名前を見比べる。
文字の癖まで、ほとんど同じだった。
その瞬間。
誰もいないと思っていた図書館の奥から、
カタン。
本が一冊、床に落ちる音がした。

