圭介は、ノートに書いた四桁の数字を見つめた。
4721
暗証番号かもしれない。
だが、まだ金庫には入力しない。
三日前の自分が残した警告を無視するつもりはなかった。
調べるべきなのは、
この数字が何を意味しているのか。
圭介はまず、自分に関係する数字を洗い出した。
誕生日。
電話番号。
社員番号。
郵便番号。
マンションの部屋番号。
車のナンバー。
銀行口座。
どれにも4721は含まれていなかった。
次にスマートフォンを調べる。
連絡先。
写真。
カレンダー。
メモ。
検索履歴。
「4721」で検索しても、何も出てこない。
「違うのか……」
圭介は椅子にもたれた。
そのとき、机の上の金庫の保証書が目に入った。
もう一度手に取る。
型番。
製造番号。
購入日。
販売店。
圭介は何気なく説明書を開いた。
そこで手が止まった。
暗証番号の設定方法のページ。
文章の一部に、黒い線が引かれていた。
暗証番号を設定後、必ず開錠できることを確認してください。
圭介は眉をひそめた。
線を引いた記憶はない。
だが使われているインクは、あの黒い油性ペンとよく似ている。
ページをめくる。
もう一か所。
今度は非常時の開錠方法だった。
そこにも線が引かれている。
暗証番号を忘れた場合――
その先だけが、黒く塗り潰されていた。
圭介は説明書を机に置いた。
「自分で……使えなくした?」
暗証番号を忘れようとしただけではない。
別の方法で開けることまで避けようとしている。
三日前の自分は徹底していた。
それなのに、
4721という数字だけは残した。
ますます意味が分からない。
圭介は説明書を最初のページから読み直した。
そして、製品仕様の欄で視線が止まった。
金庫には簡単な操作履歴を確認する機能があった。
最後に操作した日時だけを表示できる。
開錠しなくても確認できる。
圭介は説明書どおりにテンキーを操作した。
小さな表示部に数字が出る。
3日前 21:47
最後に操作された時刻。
圭介はノートを見る。
三日前の検索履歴。
21:14 数字を忘れる方法
21:17 覚えにくい数字
21:21 ランダムな数字 作り方
21:28 暗証番号 自分でも分からなくする
そして、
21:47 金庫を操作。
流れはつながっている。
三日前の午後九時台。
圭介は意図的に暗証番号を設定し、その番号を自分の記憶から切り離そうとしていた。
「じゃあ4721は、そのときの……」
そこで圭介は止まった。
検索履歴をもう一度見る。
時刻。
21時14分。
21時17分。
21時21分。
21時28分。
何かが引っかかった。
圭介は紙に数字だけを書き出した。
14
17
21
28
そして、封筒に残っていた数字。
4721
並べ替える。
4。
7。
2。
1。
「……違う」
暗証番号そのものではない。
少なくとも、そう考えたほうが自然だった。
三日前の自分は番号を忘れようとしていた。
その人間が、暗証番号そのものを紙に書いて残すはずがない。
4721は、
暗証番号を導くための指示なのではないか。
圭介は部屋を見回した。
四。
七。
二。
一。
何かを指定する数字。
ページ。
行。
文字。
「ページ……?」
圭介は本棚を見た。
昨夜読んでいた本。
机の上の本。
仕事関係の資料。
どれを使うのか分からない。
だが、三日前の自分が確実に持っていて、
今の自分も捨てないものがある。
圭介は保証書の封筒を見た。
その中から説明書を取り出す。
ページ番号を確認する。
全三十二ページ。
四ページ。
七ページ。
二ページ。
一ページ。
順番に開く。
何もない。
「違うか……」
閉じようとして、
ふと気づいた。
説明書の裏表紙。
そこに小さな文字で、
4-7-2-1
と印刷されていた。
圭介の心臓が跳ねた。
製品の問い合わせ番号の一部だった。
だが、それだけではない。
三日前の自分は、この数字を見ていた。
だから4721を選んだ。
暗証番号ではない。
この説明書を指すための目印。
圭介はもう一度、説明書を調べた。
四ページ。
七行目。
二十一文字目。
そう読むこともできる。
4・7・21。
だが封筒に残っていたのは、
4、7、2、1。
圭介は四ページを開いた。
上から七行目。
文章を左から数える。
一文字目。
二文字目。
そこで気づく。
七行目には短い文章があり、
二番目の単語の一文字目を拾うこともできる。
解釈はいくらでもある。
それでは手がかりにならない。
三日前の自分なら、もっと単純な方法にしたはずだ。
圭介は説明書を閉じた。
表紙を見る。
商品写真。
製品名。
型番。
そして右下に、小さく書かれた文字。
取扱説明書 Ver.4.7.2.1
圭介は息を止めた。
「これか」
4721は番号ではない。
説明書そのものを指していた。
だとすれば、
説明書の中に次の手がかりがある。
圭介はページを一枚ずつ確認した。
書き込み。
折り目。
汚れ。
不自然な傷。
そして十九ページで手が止まった。
ページの角が、ごく小さく折られている。
非常時の開錠について書かれたページだった。
例の黒く塗り潰された箇所がある。
圭介は紙を照明へ透かした。
黒いインクの下に、印刷された文字がわずかに見える。
だが読めない。
裏面を見る。
そこには、鉛筆で小さく書かれた一文があった。
番号を知ったら、昨日の写真を見る。
「昨日の写真……?」
圭介はスマートフォンを手に取った。
写真アプリを開く。
昨日撮影した写真。
一枚だけあった。
午後八時十三分。
撮った記憶はある。
帰宅途中、マンションの駐車場から見えた夕焼けが妙に赤かったので撮影した。
何の変哲もない写真だった。
だが拡大すると、
画面の端に自分の車が写り込んでいる。
ナンバープレート。
圭介は目を細めた。
車の番号は4721ではない。
その瞬間、気づいた。
フロントガラスの内側。
ダッシュボードの上に、
白い紙が置かれている。
「……なんだ、これ」
昨日、写真を撮ったときには気づかなかった。
圭介は立ち上がった。
駐車場へ下りる。
車の鍵を開ける。
運転席に座り、ダッシュボードを探す。
何もない。
だが助手席のサンバイザーを下ろした瞬間、
一枚の紙が落ちた。
小さく折られている。
圭介は拾った。
開く。
そこには数字が八桁、書かれていた。
58310426
圭介は息を止めた。
金庫は四桁から八桁の暗証番号に対応している。
今度こそ、
暗証番号かもしれない。
しかし、その下にもう一行あった。
これを覚えるな。写真を撮るな。
圭介は反射的に目をそらした。
だが遅い。
八桁の数字はすでに見てしまった。
完全には覚えていない。
最初が58。
最後が26。
その程度だった。
圭介は紙を折り畳んだ。
そして裏側を見た。
そこにも、自分の字で文章が書かれていた。
ここまで来たなら、理由を知る資格がある。
その下。
ただし、金庫はまだ開けるな。
そして最後に、
金庫の中にあるものは、危険なものではない。
圭介は眉をひそめた。
危険ではない。
なら、なぜ開けてはいけない?
紙には続きがあった。
開けた瞬間に意味がなくなる。
圭介は、その一文を何度も読んだ。
部屋へ戻った圭介は、金庫の前に座った。
八桁の数字を書いた紙は伏せて置いた。
暗証番号は分かった。
おそらく、
58310426。
だが入力はしない。
ここまで三日前の自分が残した指示に従ってきた。
そして初めて、
ひとつの事実がはっきりした。
三日前の自分は、
金庫の中身を隠したかったわけではない。
暗証番号を永久に失いたかったわけでもない。
必要なら、自分で暗証番号までたどり着けるようにしていた。
ただし、
簡単にはたどり着けないようにした。
なぜか。
圭介はノートを開いた。
そこに一文を書く。
これは金庫ではない。
しばらく考え、その下に続けた。
自分に何かを確認させるための装置だ。
金庫を買う。
暗証番号を設定する。
番号を直接は残さない。
手がかりを分散させる。
未来の自分に、それを一つずつ調べさせる。
そして最後まで、
「開けるな」と警告する。
圭介は顔を上げた。
「俺は……何を確認したかった?」
答えは金庫の中にある。
そう思っていた。
だが、違う。
答えは、
ここまで自分が取ってきた行動そのものにある。
その瞬間だった。
圭介は、三日前の検索履歴について重大なことに気づいた。
「数字を忘れる方法」
「覚えにくい数字」
「暗証番号 自分でも分からなくする」
自分は、
記憶そのものを失ったわけではない。
暗証番号だけを、意図的に知らない状態にした。
では――
金庫を買ったことまで覚えていないのはなぜなのか。
圭介の表情が変わった。
それは説明できていない。
三日前の自分が暗証番号を忘れようとした証拠はある。
しかし、
金庫を買った記憶まで消そうとした証拠は、一つもない。
圭介はゆっくりと金庫を見た。
朝から当然のように、
「三日前の記憶が抜けている」
と思っていた。
だが本当にそうなのか。
圭介はスマートフォンの写真を開いた。
三日前。
写真はない。
次にメッセージ。
なし。
そしてカレンダー。
何もない。
だが、
それは「記憶がない証拠」ではない。
圭介は目を閉じた。
三日前の夕方を思い出す。
会社を出た。
車に乗った。
そこから先。
何もないと思っていた。
圭介は焦らず、細部だけを探した。
ハンドル。
信号。
ラジオ。
道路。
そして――
一瞬だけ、
ホームセンターの駐車場が浮かんだ。
圭介は目を開けた。
「……覚えてる」
ぼんやりとだが、記憶はあった。
金庫を車へ積んだ感触。
重かった。
店員から台車を借りた。
自宅まで運んだ。
玄関で一度、箱を床へ置いた。
少しずつ思い出せる。
消えていたのではない。
ただ、
思い出そうとしていなかった。
圭介は金庫を見つめた。
そこで、ようやく三日前の自分が仕掛けたものの輪郭が見えた。
暗証番号を知らない自分。
警告を見つける自分。
理由を知りたくなる自分。
手がかりを探す自分。
そして最後に、
「自分は記憶を失っている」と思い込んでいたことに気づく自分。
そこまでが、
最初から仕組まれていた。
圭介は、八桁の数字が書かれた紙を裏返した。
まだ金庫は開けない。
なぜなら今、初めて分かったからだ。
三日前の自分が隠そうとしたものは、
金庫の中身ではない。
暗証番号でもない。
三日前の自分は、
未来の自分に、
ある思い込みをさせようとしていた。
そして、その思い込みに自力で気づかせようとしていた。
では、なぜ。
そこまでして、
自分自身を試す必要があったのか。
圭介は金庫の取っ手に触れた。
答えは、もうすぐそこにある。
だが――
まだ開けてはいけない。

