『甘い眩暈』消えた20分

『甘い眩暈』消えた20分のタイトル画像。 短編ミステリー
『甘い眩暈』― 消えた20分

最初におかしいと思ったのは、チョコレートを食べた夜だった。

2026年8月13日、木曜日。

午後九時を少し回ったころ。

水城圭介は仕事を終え、一人暮らしのマンションに帰ってきた。

ネクタイを緩め、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。

夕食を作る気にはなれなかった。

最近は残業が続いている。

腹は減っていたが、それ以上に疲れていた。

圭介はリビングのソファに腰を下ろし、ローテーブルの上に置かれていた箱を見た。

チョコレート。

昨日、駅前のスーパーで買ったものだった。

甘いものが特別好きなわけではない。

ただ、疲れているときだけ、無性に食べたくなることがある。

箱を開け、一粒取り出す。

そのとき、壁の時計が目に入った。

九時十分。

「まだ九時か」

テレビをつける気にもならず、圭介はチョコレートを口へ放り込んだ。

舌の上でゆっくり溶けていく。

少し苦く、そのあとから甘さが広がった。

その瞬間だった。

ふっと、頭の奥が揺れた。

立ちくらみに似ている。

けれど、立ってはいない。

圭介は眉間を押さえた。

「……疲れてるな」

目を閉じる。

ほんの数秒だったと思う。

そして目を開けた。

何かがおかしい。

最初は、それが何なのか分からなかった。

部屋は変わっていない。

テレビは消えている。

カーテンも閉まっている。

自分も先ほどと同じようにソファに座っている。

ただ――。

圭介は壁の時計を見た。

九時三十分。

「……え?」

身体を起こす。

もう一度見る。

長針は六を指している。

九時三十分。

圭介はスマートフォンを手に取った。

画面には、

21:30

と表示されていた。

「嘘だろ」

さっき時計を見たときは九時十分だった。

チョコレートを口に入れた。

少し眩暈がした。

目を閉じた。

それだけだ。

体感では十秒も経っていない。

なのに、二十分が消えている。

圭介は立ち上がった。

テーブルを見る。

チョコレートの箱がある。

水もある。

何も変わっていないように見えた。

しかし、一つだけ違っていた。

チョコレートの包み紙が、二つあった。

「……二個?」

食べたのは一粒だけだ。

少なくとも、圭介はそう覚えている。

もう一つ食べたのだろうか。

記憶にない。

圭介はしばらく包み紙を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「寝ぼけてたんだな」

最近は睡眠時間も短い。

疲れて、そのまま少し眠ってしまったのだろう。

二個目のチョコレートも、無意識に食べた。

そう考えれば説明はつく。

その日は、それ以上考えなかった。


三日後。8月16日、日曜日。

同じことが起きた。

圭介は自宅で本を読んでいた。

午後三時ごろ、コーヒーを淹れる。

棚を開けると、以前買ったキャンディーが残っていた。

一つ取り出し、口に入れた。

甘いレモンの味が広がる。

数秒後。

また、あの感覚が来た。

ふわりと床が傾いたような感覚。

「またか……」

圭介はテーブルに手をついた。

今度は目を閉じなかった。

そのつもりだった。

ところが――。

気づいたとき、圭介はキッチンに立っていた。

右手にはグラスがある。

蛇口から水が流れていた。

「……何してるんだ?」

慌てて水を止める。

さっきまでリビングで本を読んでいた。

それなのに、なぜ自分はキッチンにいる?

壁の時計を見る。

三時二十七分。

圭介の背中に冷たいものが走った。

三時ごろにコーヒーを淹れた。

キャンディーを食べた。

眩暈がした。

そして――ここにいる。

また二十分ほどが抜けている。

今回は眠っていたとは考えにくい。

自分は移動している。

しかも水まで出していた。

圭介はリビングへ戻った。

読みかけの本がテーブルに置かれている。

ページを見る。

栞を挟んだ覚えはなかった。

ところが、本には栞が挟まれていた。

そして、その横に一枚の付箋が置かれている。

圭介は手に取った。

何も書かれていない。

ただの黄色い付箋。

なぜこんなものを出したのか。

分からない。

圭介はキャンディーの袋を見た。

そして、三日前のことを思い出した。

チョコレート。

甘いもの。

眩暈。

消えた二十分。

今日も同じだ。

キャンディー。

甘いもの。

眩暈。

消えた時間。

「まさか……」

馬鹿げている。

甘いものを食べただけで記憶が消えるなんて聞いたことがない。

偶然だ。

疲れているだけだ。

そう思おうとした。

しかし、その日の夜。

圭介はノートを一冊用意した。

表紙に日付を書く。

そして、一ページ目に記録した。

2026年8月13日(木)21:10

チョコレートを一粒食べる。

直後に軽い眩暈。

次に時計を確認したとき、21:30。

約20分間の記憶なし。

包み紙が二つ。

続けて書く。

2026年8月16日(日)15:05ごろ

レモンキャンディーを一個。

直後に同じ眩暈。

次の記憶はキッチン。

時計は15:27。

何をしていたか不明。

圭介はペンを止めた。

二つの記録を見比べる。

共通しているもの。

甘いもの。

眩暈。

そして、記憶の空白。

偶然なのか。

確かめる方法は一つしかなかった。


翌日。8月17日、月曜日。

圭介は仕事を終えて帰宅すると、スマートフォンを棚の上に固定した。

カメラを起動する。

画面にはリビング全体が映っている。

ソファ。

ローテーブル。

壁の時計。

そして自分。

時刻は午後八時四十二分。

圭介は録画ボタンを押した。

テーブルにはチョコレートが一粒だけ置いてある。

「これなら分かる」

もし眠っているだけなら、その姿が映る。

もし無意識に何かしているなら、それも映る。

そして――。

何も起きなければ、それでいい。

圭介はチョコレートを手に取った。

カメラへ見せる。

「八時四十三分」

自分の声で時刻を残す。

そして口に入れた。

甘さが広がる。

十秒。

二十秒。

何も起きない。

「やっぱり偶然か」

そう呟いた直後だった。

視界が、わずかに揺れた。

来た。

あの眩暈だ。

圭介はテーブルに手をついた。

そして――。

次の瞬間。

圭介はソファに座っていた。

口の中からチョコレートの味は消えている。

壁の時計を見る。

午後九時三分。

「……まただ」

約二十分。

圭介はすぐにスマートフォンへ駆け寄った。

録画は続いている。

震える指で停止する。

これで分かる。

自分が消えた二十分間に何をしていたのか。

圭介は動画を最初まで戻した。

画面の中で、自分がチョコレートを食べる。

眩暈を感じ、テーブルに手をつく。

ここまでは覚えている。

その直後。

映像の中の圭介は――。

何事もなかったように顔を上げた。

立ち上がる。

机へ向かう。

引き出しから何かを取り出す。

そして、カメラには背を向けたまま、数分間何かをしている。

眠ってなどいない。

倒れてもいない。

普通に動いている。

圭介は画面を凝視した。

映像の中の自分が、机から離れる。

何かを引き出しへ戻す。

そしてソファへ戻った。

座る。

数秒後――。

画面の中の自分が突然、驚いた顔で壁の時計を見た。

それが、今の自分だった。

「……俺は、何をしてた?」

圭介は机へ向かった。

引き出しを開ける。

中には文房具と古い書類しかない。

一つずつ取り出す。

何もない。

最後に、一番下に敷かれていたクリアファイルを持ち上げた。

その下から、小さく折られた紙が出てきた。

圭介は動きを止めた。

こんな紙を入れた記憶はない。

ゆっくり開く。

そこには短い文章が書かれていた。

見慣れた字だった。

自分の筆跡。

圭介は息を止めた。

紙には、こう書かれていた。

「甘いものを食べたから忘れたんじゃない。」

その下に、もう一行。

「忘れるために、甘いものを食べた。」

圭介はしばらく、その文章から目を離すことができなかった。

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