圭介は引き出しの奥から、薄い封筒を取り出した。
白い、ごく普通の封筒だった。
宛名はない。
切手もない。
ただ表面に、自分の字で一言だけ書かれている。
「最後に開けろ」
圭介はしばらく封筒を見つめていた。
ここまで来て、開けないという選択肢はない。
それでも指が動かなかった。
怖かった。
中に何が入っているのかではない。
中身を見た自分が、何を思い出すのか。
それが怖かった。
圭介は封を切った。
中には一枚の写真と、二つ折りにされた紙が入っていた。
先に写真を取り出す。
小さな喫茶店。
窓際の席。
テーブルの上には二つのコーヒーカップ。
そして、小さな皿に載ったチョコレートケーキ。
写真の端に、女性の手だけが写っている。
顔はない。
だが、圭介には分かった。
「……美咲」
名前が口から出た瞬間。
頭の奥が、ふっと揺れた。
あの眩暈。
圭介は反射的にテーブルへ手をついた。
しかし今回は目を閉じなかった。
逃げなかった。
写真を見続けた。
少しずつ、記憶が戻ってくる。
半年前。
圭介には、美咲という恋人がいた。
三年間付き合っていた。
休日にはよく二人で喫茶店へ行った。
美咲は甘いものが好きだった。
特にチョコレートケーキ。
圭介はブラックコーヒー。
美咲はケーキ。
いつも同じだった。
写真は、その店で撮ったものだった。
そして半年前。
二人は別れた。
大きな事件があったわけではない。
誰かが裏切ったわけでもない。
ただ、少しずつ生活がずれていった。
仕事。
時間。
将来。
小さなすれ違いが積み重なった。
最後に会った日も、その喫茶店だった。
美咲はいつものようにチョコレートケーキを注文した。
けれど、ほとんど食べなかった。
長い沈黙のあと、美咲は言った。
「もう、終わりにしよう」
圭介は何も言えなかった。
引き止めることもできた。
理由を聞くこともできた。
だが、時計を見た。
仕事へ戻らなければならなかった。
それが最後だった。
圭介は写真から目を離した。
「そうだった……」
忘れていたわけではない。
ずっと覚えていた。
ただ、思い出さないようにしていただけだった。
圭介は封筒に入っていた紙を開いた。
そこには、自分から自分への文章が残されていた。
「ここまで読んでいるなら、たぶん気づいたと思う。」
「甘いものを見ると、美咲を思い出す。」
「時計を見ると、最後の日を思い出す。」
「だから俺は、その二つを別の恐怖に置き換えようとした。」
圭介は眉を寄せた。
続きを読む。
「甘いものを食べる。」
「わざと時計を遅らせておく。」
「しばらくして正しい時刻に戻す。」
「すると俺は、『時間が飛んだ』ことばかり気にする。」
圭介はそこで紙を置いた。
ようやく分かった。
自分は記憶を消そうとしていたのではない。
注意を逸らそうとしていた。
甘いものを口にすると、美咲を思い出す。
胸がざわつく。
頭がふらつく。
それを圭介は「眩暈」と呼んだ。
そして、その直後に時計の異常を用意した。
すると意識は、
美咲ではなく、
「消えた時間」
へ向かう。
なぜ時間が飛んだ?
なぜ覚えていない?
甘いものに何かある?
その謎を追っている間だけ、美咲のことを考えずに済んだ。
紙には続きがある。
「眩暈は仕掛けじゃない。」
「あの日を思い出しかけたときに出る、俺自身の反応だ。」
圭介は目を閉じた。
ようやく、すべてがつながった。
だが、一つだけ分からない。
なぜ、こんな面倒な仕掛けを何度も繰り返したのか。
圭介は最後の部分を読んだ。
「最初は一度だけのつもりだった。」
「でも、うまくいった。」
「時間が飛んだと思った瞬間、美咲のことを考えなくなった。」
「だから二回目もやった。」
「そのうち、仕掛けを作ったこと自体を意識しないようにした。」
圭介は息を吐いた。
だから、記憶が消えているように感じた。
本当に忘れていたわけではない。
思い出そうとしていなかっただけだ。
自分にとって都合の悪い部分を、別の出来事の前後へ押し込んでいた。
甘いもの。
時計。
眩暈。
そして存在しない二十分。
すべては、美咲の記憶から目を逸らすために自分で作った迷路だった。
紙の最後には、一行だけ残されていた。
「でも、いつか自分でこの仕掛けを見破ったなら、そのときはもう逃げなくていい。」
圭介は長い間、その文章を見ていた。
それを書いたときの自分が何を考えていたのか、今なら分かる気がした。
完全に忘れたかったわけではない。
いつか思い出せるように、
甘いものを残した。
メモを残した。
写真を残した。
そして、自分なら解ける程度の矛盾を残した。
これは忘れるためだけの仕掛けではなかった。
いつか思い出すための仕掛けでもあった。
圭介は立ち上がった。
壁時計を見る。
午後九時十二分。
スマートフォンを見る。
21:12
同じだった。
腕時計も同じ。
もう直す必要はない。
圭介はノートを開いた。
これまで書いた記録を読み返す。
8月13日。
8月16日。
8月17日。
8月18日。
そこには「失った時間」を必死に探していた自分がいる。
圭介は最後のページを開いた。
そして書いた。
8月19日(水)21:14
少し考えて、その下へ続ける。
消えた時間はなかった。
さらに一行。
消えていた記憶もなかった。
ペンが止まる。
それだけでは足りない気がした。
最後に書く。
俺が見ないようにしていただけだった。
ノートを閉じた。
翌日。
八月二十日、木曜日。
仕事帰り、圭介は駅前のスーパーへ寄った。
菓子売り場の前で足が止まる。
チョコレートが並んでいる。
以前なら避けていた。
圭介は一箱だけ手に取った。
家へ帰る。
夕食を済ませる。
コーヒーを淹れる。
そしてソファへ座った。
壁時計は午後八時七分。
スマートフォンも20時07分。
圭介は箱を開けた。
一粒取り出す。
しばらく眺める。
それから口へ入れた。
甘さが広がった。
少し苦く、そのあとからゆっくり甘くなる。
あの喫茶店を思い出した。
窓際の席。
二つのコーヒーカップ。
チョコレートケーキ。
そして、美咲。
胸の奥が痛んだ。
視界がわずかに揺れた気がした。
圭介は壁時計を見なかった。
スマートフォンにも触れなかった。
ただ、その甘さが消えるまで座っていた。
やがて眩暈は収まった。
圭介はそこで初めて時計を見る。
午後八時十一分。
四分。
ただ四分が過ぎただけだった。
何も消えていない。
圭介は小さく息を吐いた。
そして、もう一粒取ろうとして――やめた。
箱を閉じる。
明日に残しておけばいい。
忘れる必要もない。
無理に思い出し続ける必要もない。
テーブルの上には、美咲と行った喫茶店の写真が置かれている。
圭介はそれを引き出しへ戻さなかった。
甘い香りだけが、しばらく部屋に残っていた。
もう、眩暈はしなかった。

