『甘い眩暈』甘さの向こう側

『甘い眩暈』甘さの向こう側のタイトル画像。 短編ミステリー
『甘い眩暈』― 甘さの向こう側

八月十八日、火曜日。

朝になっても、圭介は昨夜見つけた紙の意味を理解できずにいた。

「甘いものを食べたから忘れたんじゃない。」

「忘れるために、甘いものを食べた。」

何度読み返しても、意味は変わらない。

自分が書いた。

そうとしか思えなかった。

文字の癖も、数字の書き方も、自分のものだった。

だが、書いた記憶がない。

圭介はダイニングテーブルに紙を置き、その隣にノートを開いた。

これまでに起きたことを整理する。

8月13日(木)

チョコレート。

21時10分から21時30分まで、約二十分の空白。

8月16日(日)

レモンキャンディー。

15時05分ごろから15時27分まで、約二十分の空白。

8月17日(月)

チョコレート。

20時43分から21時03分まで、約二十分の空白。

三回。

すべて甘いものを食べた直後だった。

そして三回とも、約二十分。

偶然とは思えない。

圭介はノートの下に一本線を引いた。

その下へ書く。

甘いもの→眩暈→約20分

ペンを止める。

昨夜の紙を見る。

違う。

紙に書かれていることが正しいなら、この順番そのものが間違っている。

圭介は矢印を消した。

代わりに書く。

なぜ、俺は甘いものを食べる?

自分で書いておきながら、馬鹿げた質問に思えた。

食べたいからだ。

疲れていたからだ。

家にあったからだ。

それだけのはずだった。

だが、本当にそうだっただろうか。

最初のチョコレートは自分で買った。

二度目のキャンディーは以前から棚にあった。

三度目のチョコレートは、自分で実験するために食べた。

三回目だけは明確に理由が違う。

それなのに、同じことが起きた。

圭介は昨夜の動画をもう一度再生した。

20時43分。

画面の中の自分がチョコレートを食べる。

少ししてテーブルに手をつく。

そして顔を上げる。

そこから先は覚えていない。

圭介は再生速度を落とした。

映像の中の自分は机へ向かう。

引き出しを開ける。

紙を取り出す。

何かを書く。

折り畳む。

引き出しの一番下へ入れる。

それからソファへ戻る。

ここまでは昨夜も確認した。

圭介は映像を停止した。

「……待てよ」

巻き戻す。

もう一度見る。

机へ向かう直前。

映像の中の自分が、壁の時計を見ていた。

ほんの一秒ほどだった。

そして、左手首にも目を落としている。

圭介は自分の左手を見た。

腕時計。

仕事へ行くときは必ず着けている。

昨夜も外していなかった。

圭介は映像を拡大した。

文字盤までは読めない。

だが、自分が時刻を確認したことだけは分かる。

なぜだ。

記憶が飛んでいる最中の自分は、なぜ時刻を気にしている?


その日の仕事中も、その疑問が離れなかった。

昼休み。

圭介はスマートフォンで昨夜の動画を何度も見返した。

そして、もう一つ気づいた。

空白の二十分間。

映像の中の自分は、一度も甘いものを食べていない。

最初の一粒だけだ。

何かを飲んでもいない。

薬のようなものを口にしている様子もない。

普通に歩き、紙を書き、戻ってきている。

意識が朦朧としているようにも見えない。

むしろ普段より動きに迷いがなかった。

まるで――。

これから何をするのか、最初から知っているようだった。

圭介はスマートフォンを伏せた。

その考えが一番気味悪かった。


帰宅したのは午後七時過ぎだった。

圭介は夕食を済ませると、家にある甘いものをすべてテーブルへ並べた。

チョコレート。

キャンディー。

砂糖。

ジャム。

冷蔵庫にはプリンもある。

自分でも驚くほどあった。

普段、それほど甘いものを食べる人間ではない。

「こんなに買ったか……?」

レシートを探した。

財布。

ゴミ箱。

買い物袋。

いくつか見つかった。

チョコレート。

確かに自分で買っている。

プリンもそうだった。

ジャムもある。

しかし、キャンディーだけは購入した記憶が曖昧だった。

袋を裏返す。

駅前のスーパーでも売っている、ごく普通の商品だ。

問題はそこではない。

圭介は袋の中身をテーブルへ出した。

十二個。

透明な包装紙に包まれたレモンキャンディー。

そのうち一つを指でつまむ。

食べれば、また起きるかもしれない。

だが今回は食べなかった。

代わりに砂糖を小さじ一杯、コーヒーへ入れた。

普段はブラックで飲んでいる。

一口飲む。

甘い。

待つ。

一分。

五分。

十分。

何も起きない。

眩暈もしない。

圭介は時計を見た。

正常だった。

「砂糖じゃない……?」

今度はジャムを少しだけ舐めてみた。

甘い。

待つ。

何も起きない。

プリンも一口だけ食べた。

それでも変化はなかった。

圭介は椅子にもたれた。

仮説が崩れた。

甘いものなら何でもいいわけではない。

これまで起きたのは、

チョコレート。

キャンディー。

チョコレート。

固形の菓子だけ。

ならば、種類に意味があるのか。

成分か。

量か。

それとも――。

圭介はキャンディーを見た。

食べようとして、手を止める。

怖かった。

だが、確かめなければならない。

今度は条件を変える。

スマートフォンを録画状態にする。

壁の時計だけではない。

テーブルの上には腕時計も置いた。

さらにパソコンの画面にも時刻を表示する。

三つの時計。

全部が同時に見える位置へカメラを置いた。

圭介はノートに書いた。

8月18日(火)20:14

その下へ、

これからレモンキャンディーを一個食べる。

と記録する。

ペンを置く。

キャンディーを口へ入れた。

甘酸っぱい味が広がる。

圭介は三つの時計を順番に見た。

壁時計。

腕時計。

パソコン。

すべて、

20時14分。

一分。

二分。

何も起きない。

「今日は起きないのか……?」

そう思った瞬間。

頭の奥が揺れた。

圭介は息を止めた。

来た。

昨日と同じ。

いや。

少し違う。

今回は意識していた。

絶対に目を閉じない。

時計から目を離さない。

圭介は壁時計を睨んだ。

秒針が動く。

一秒。

二秒。

三秒。

そして――。

「……え?」

圭介は瞬きをした。

壁時計は、

20時35分。

腕時計を見る。

20時35分。

パソコンも同じだった。

二十一分。

消えている。

圭介はすぐに録画を止めた。

手が震えていた。

「三つとも……」

時計の故障ではない。

少なくとも、そう思えた。

三つの時計が同じ時刻を示している。

圭介は録画を再生した。

20時14分。

キャンディーを食べる。

20時15分。

自分が壁時計を見ている。

次の瞬間――ではない。

動画の中では時間が普通に流れていた。

映像の自分が立ち上がる。

机へ行く。

ノートを開く。

何かを書く。

キッチンへ向かう。

水を飲む。

再び机へ戻る。

そして20時34分。

ソファへ座る。

20時35分。

映像の自分が突然、驚いた顔になる。

「やっぱり……俺は動いてる」

圭介は動画を止めた。

次にノートを開く。

自分が何を書いたのか確認する。

実験前に書いた文章の下に、新しい文字が増えていた。

圭介は息を呑んだ。

自分の字だった。

「次は時計を見るな。」

その下。

「時刻を確認すると、また間違える。」

圭介は壁時計を見た。

腕時計を見る。

パソコンを見る。

全部同じ時刻。

何を間違えるというのか。

そのとき、ノートの端に小さな数字が書かれていることに気づいた。

14

その下に、

35

二つの数字の間には矢印が引かれていた。

14 → 35

二十一分。

今回、自分が失ったと思っている時間そのものだった。

だが、その横に小さく一文字だけ書かれていた。

「違う」

圭介はしばらく、その文字を見つめた。

二十一分消えた。

録画にも、その二十一分間の自分が映っている。

三つの時計も一致している。

それなのに、記憶のない自分は、

「違う」

と書いている。

何が違う?

時間か。

時計か。

それとも――。

自分の記憶か。

圭介は最初のページへ戻った。

8月13日。

21時10分。

8月16日。

15時05分。

8月17日。

20時43分。

そして今日。

20時14分。

四つの時刻を見比べる。

何かが引っかかった。

だが、それが何なのか分からない。

圭介は昨夜の紙を横に置いた。

「甘いものを食べたから忘れたんじゃない。」

「忘れるために、甘いものを食べた。」

そして今日の文章。

「次は時計を見るな。」

「時刻を確認すると、また間違える。」

圭介はそこで初めて、一つの可能性に思い至った。

これまで自分は、

「なぜ二十分間の記憶が消えるのか」

ばかり考えていた。

しかし――。

もし、問いそのものが間違っていたら?

圭介はノートの新しいページを開いた。

ゆっくりと一行だけ書いた。

本当に、二十分は消えているのか?

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